葛町 うんとん山本屋

◎創業が古いと何が良い?

 京都のお菓子井筒八ツ橋本舗が同業者の聖護院八ツ橋総本店の元禄創業に根拠がないという訴訟は、今月22日、第一回口頭弁論が行われたそうだ。ウェブサイトを見ると双方とも最初の方に歴史の項目が置かれている。どちらも本家本元という決定打を欠く中での争いになりそうだ。静かに京の銘菓として売っていれば良いのにと思うのは筆者が京都人ではないからだろう。あそこで生きるのは大変だ。

 さて、名古屋の味噌煮込みうどんといえば山本屋さん。大手では山本屋総本家と山本屋本店がある。ウェブサイトを見ると双方とも老舗なのに歴史の項目がない。創業が古いことに価値を見出さないのか?それとも平和条約が締結されているのか?実を取る名古屋で重要なのは歴史ではなく、味と値段なのかもしれない。

 

◎葛町 山王稲荷前

 そんな火の気のないところに享保の山本屋のことをもち出すのは少し気がひけるが、見つけてしまったからご容赦願いたい。

 「不たつさか津き」という享保代に名古屋で出版された本で、西小路と富士見原の遊女の名を書き連ね、遊所をストーリー仕立てで紹介した評判記だ。この本では、まがりなりにも堀のある西小路と富士見原を両廓とみて二つ盃と見立てており、今回紹介する葛町(かつらまち)は廓外とする。

 堀もなければ木戸もないが、妓楼も芝居もあるので他の本では三遊所の一つに数えられている。場所は今の正木小学校の北端が本通りに当たる。

 右から見ていくと、鳥居に「稲荷前」とある。鳥居前の立札の前の男の台詞が分かりにくく自信がないのだが「かつはと わたぶと 両十八番じゃの」二つの演目はオハコだなと言うのか?中央の大黒頭巾の男が「一段聞いて行こ」少し聞いて行こうと。 山本屋前の女たちは「にぎやかなことじゃて」歓楽堂前の侍は「これは確かにつられもの」と言う。

 見世は右から「菜飯」つぎは田楽と思われる。当時は丸い豆腐を串に刺した。続ければ菜飯田楽…山本屋、うんとん、とくればきっと味噌味だろう、と作中には味噌煮込みうどんとして書いた。

「なごやコレクション」名古屋遊廓(市20133)より

 上が北。☆からの視点で男たちの見ている立札は山王稲荷に入って右手の「浄瑠璃」の看板なのだろう。山本屋と歓楽堂は橘町通りの東側で地図になく葛町ではない。橘町通りを南に向かい西へ曲がると葛町のメインストリートだ。ここも鉤の手になっている。道の真ん中の注意書きを読むと、「芝居へ、この空家より入る」とある。空家を北へ向かうと「宮古路豊後芝居」とある。豊後節を創始した浄瑠璃語りが名古屋に滞在していたのだった。その独特な泣くような語りが特徴。きっとマイケル・ジャクソンが入れる「アッ」という喉を詰まらせる語りだったのだろう。宗春の失脚には宮古路の影響が大きいので後にブログにも書くことになろうから、今はこのくらいにしたい。地図では宮古路豊後芝居は道に面しているのに空き家を入口としたとは、にくい演出ではないか。ディズニーランドなど現在のテーマパークのような日常から非日常への誘いの妙味を心得ている。

◎葛町 奥

 「尾陽戯場事始」の猿猴庵の絵だ。辰巳屋で客引きに止められて剽軽にしている二人は素見、ひやかしの客。宗春を真似て供の者に長い煙管を持たせた者も多かったらしい。

 この絵は、芝居のセットのように奥行きがなく奇妙だ。肝心の芝居は左上の櫓が懸っているところだが……

 同じく北が上。前掲の葛通りの突き当り近く。北に行くと西小路に繋がる。猿猴庵の絵は見世の並びから☆からと考えられる。林がある空き地で芝居も掛ったのだろう。ただし、その向こうにうだつのあるような豪壮な建物は地図には無い。

 地図の南西に「たいや」は鯛屋という妓楼で遊女濃安都によると三五という遊女が小三郎に身請けされたとある。作中ではこれを師崎の羽差に当てた。

 その三軒隣のうどん屋を宗春主従が入った見世とした。うどん屋の裏手からは闇森(くらがりのもり)八幡社の木立が見えたかもしれない。

 享保十八年霜月、飴屋町花村屋女郎の小さんと日置の畳屋の喜八の心中未遂=名古屋心中の起きた場所だ。これを名古屋滞在中の宮古路豊後が「睦月連理玉椿(むつきれんりのたまつばき)」という浄瑠璃にして名古屋、その後、江戸で大ヒットとなり豊後節は社会現象まで引き起こした。

 こんな全国的なヒットを生んだエピソードを京の菓子屋なら放ってはおかないだろう。当時、お上の手前できなかったのは解かる。今からでも遅くはない。恋愛成就のお菓子「連理玉椿」なんて名古屋銘菓があっても良いと思うのだが……。

西小路(2) 伊勢音頭の謎

◎石碑に込めた想い

 昨年二月に小刀屋藤左衛門こと木全湛水の終焉の地である篠島を訪れた際、島の人に訊いても、島内に在ると聞いていた湛水の歌碑はとうとう見つからなかった。きっとどこかの木の下に人目を避けてひっそりとあるのだろう。その帰り、師崎の岬の先端でSKE48の「羽豆岬」の碑を見た。探していたわけではない目に飛び込んできたのだ。豆の形(ハート型?)で開けた岬の先端に建立されていた。地域密着・地域貢献がSKEの活動のテーマだという。喧伝される噂より、一人一人、リアリティが大切という姿勢は、蓋し人気者づくりの原点だろう。ならば地域おこしに使おうという地元の商工会の思いも解らないではない。アイドルと石碑というミスマッチを狙ったのだろうか。

 不勉強で「羽豆岬」という楽曲を知らなかったが、ここで紹介する伊勢音頭は、二百年以上人口に膾炙している。それなのに発祥の地には未だ石碑がないどころか知られてもいない。

 

◎伊勢音頭は川崎音頭

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ

 これが伊勢音頭だ、と一般には思われているが、この歌ができた当初は、川崎音頭と呼ばれていた。

 慶応二(1866)年に出版された「神境秘事談」によれば、伊勢河崎音頭は享保の頃、吹上町奥山桃雲が河崎町伊藤又市梅路に作詞させ、同町の鍛冶屋長右衛門と草司に作曲させたという。だが、その歌詞についてはふれられていない。これにより河崎町で作られたから川崎音頭と呼ばれたと推測できる。

 では、いつから川崎音頭が伊勢音頭と呼ばれるようになったのか?

 寛政九(1797)年に出版された「伊勢参宮名所図会」古市の図。三味線二挺に合わせて踊り子が輪になって踊る様子だ。客の男は点在していて実に自由だ。鯛の尾頭付きで酒を注されて上機嫌な者、浮かれて一緒に踊る者、踊りは見ず「こういう雰囲気が好きなんだ」と縁側で寝そべっている者もある。苔むした手水の下は万年青だろうか。料理と酒は座敷のどこでも運ばれる。テーブルとイスのない宴には開放感がある。閑話休題。見るべきは上部の説明書き……

 古市も間の山(あいのやま)地域なので間の山節を唄っていたのだが、移り変わりでいつの頃からか川崎音頭が流行してこれを伊勢音頭と呼んで町中も田舎も廓の唄と同じになってしまった、という内容。

 江戸後期に書かれた「守貞謾稿」は、楼ごとに歌詞や唄の長さに違いがあってすべてを同じ音頭というべきかどうか、と疑義を呈している。守貞は伊勢音頭の歌詞として三つを挙げている。順に……

「大坂はなれてはや玉造り、笠をかうなら深江が名所、ヤアトコセー、ヨイヤナ、アリヤリヤ、コリヤリヤ、ソリヤナンデモセー。」

 これはできの悪いコマーシャルソングではないか!これを伊勢で唄ったところで客は腑に落ちないだろう。カタカナの囃子言葉は、あれもこれも何でもせよ、と勧めているようだ。Do what you like!

「伊勢へ七たび熊野へ三度、愛宕さまへは月まゐり、ヤアトコセー、云々」

 全国に点在する身近な愛宕神社へ参詣を欠かさない信心深い者の足を伊勢に向ける擦り込みか……?

「いせは津でもつ、津はいせでもつ、尾張名古やは城でもつ、云々」

 なぜ、唐突に尾張なのだろう。思うに深江同様に尾張で唄われた国誉めのバージョンなのだろう。

 

◎謎かけの芸風

 ねずっちの古典的謎掛け、堺すすむさんの「な~んでか」、テツ&トモの「なんでだろう」と脳みそをくすぐる芸風は今も根強い。実は伊勢音頭もちょっとした謎掛けなのだ。

 伊勢音頭をyoutubeで見てみると多くの地域で今も歌い踊られているようだが、ほとんどは、前段として「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」と続きで唄い、やや間があって「尾張名古屋は」ときて、その次に「やんれ」など合の手が入り「城で~」と続く。

 これはつまり、伊勢と津は持ちつ持たれつだよね。さて、そこで問題!尾張名古屋は(どこと持ちつ持たれつでしょう)?と問いかける。考えさせておいて答えを言うという堺すすむ流の演芸スタイルなのだろう。答えを言わないテツトモではない。堺さんのように始終ネタを変えるならよいが、答えが知れ渡れば当然飽きられる。

 

◎尾張名古屋は何でもつ

 筆者は「城」は、当初、正答ではなかった、と考える。前段を考えると、伊勢と津が持ちつ持たれつ、と読める。さて、尾張は?とだけ訊かれると、どこかな?と脳は地名を考えはじめる。美濃かな、それとも木曽かなと……。ところが作詞者の意図は伊勢と津の縁語にある。「伊勢=大社」「津=港」だ。つまり、尾張の神宮と港はどこ?と訊いているのだ。

 尾張の大神宮は言わずと知れた熱田神宮。尾張の港といえば東海道七里の渡しのある宮宿。熱田神宮も宮にあるから、尾張は大社と港の両方を宮宿が一つで兼ね備えている。

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は 宮でもつ

 と褒めているのではないか。

 ついでに「守貞謾稿」の他の唄も名古屋バージョンにすると――

 「愛宕さま」は「熱田さん」ではなかったか?

伊勢へ七度、熊野へ三度、熱田さんへは 月参り

 地元密着だ。さらに、当時は木曽の蘭(あららぎ)の桧の笠が大流行したから……

名古屋離れて はや中津川 木曽は蘭 桧笠

 これなら語調も合うし、押し付けがましくなく品がいい。

 最初に聴いた者は「なるほどね」と腑に落ちただろう。だが腑に落ちただけだ。誰もが納得できる歌詞が大ヒットするとは限らない。というより常識すぎるとすぐに飽きる。大衆は意外性を求めるものだ。

 

◎西小路芝居で当たらず

 ここで、前回の地図に戻りたい。

 西小路芝居の枠外。

「芝居の中にて子ノ年の盆西小路女郎川崎をんどにて踊ル不当り一夜踊後止申候寅ノ年此芝居にて舞台かけ大躍り御座候」

 西小路芝居で享保十七(1732)年の盆に西小路の女郎が川崎音頭を踊ったが不評で一夜で中止になった。享保十九(1734)年で(再度)舞台にかけて大踊りとなった。

 西小路の遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったから、伊勢色をPRしつつ地域密着・地域貢献を、とご当地名古屋のお国褒めを意図したが、当初は大コケだったわけだ。ところが二年後にリベンジが大成功した。結局、先に挙げたようにここでの川崎音頭の大ヒットは伊勢古市にまで届き「伊勢は~」で始まる音頭が伊勢音頭の名で呼ばれたわけだ。

 筆者はこの二年の間に西小路のどこかの座敷で「宮」を「城」に替えた者がいたと考えている。これでは結局、成立場所が特定できず、碑の建立もできそうにない。

 

◎「城」は物ではない

 さて、次なる問題は、宮という正答を城にしてなぜ大当りとなったか。味わい深い面白みが城にはあるのか?城が立派でかっこいい、城こそ名古屋が誇れるものだから、だから、木造で再建する価値がある、というのは物質主義で浅はかな回答というしかない。「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られる。

 伊勢>>大社という連想と同じく城の意味するところ考えてみればすぐわかる。「城」は「殿様」すなわち宗春を指したのだと筆者は考える。正答をずらして「いやちがう名古屋がもっているのはお殿様のお蔭だ」と唄うことで排他意識(=俺たちだけが知っているという内輪ウケ)が生まれたのだろう。さらに、それに続く「あれもこれも何でもやってみよ」という囃子言葉は宗春治政下の自由な気風を如実に表しているのではないか。時を経て城が比喩しているところは忘れられたが、城でもつという不思議な歌詞の面白みが陳腐化を避け、延々と今日まで歌い継がれているのではないだろうか。

 現今の施政者は名古屋を活気づけた、という経済的観点でのみ宗春を真似ている。結果として町が活気づいたのであり、目指したのは人の知りたいという心を満たしていく温知であり、仁政なのだ。

 

◎宗春の建てる城

 城の再建――宗春ならどうしたか、施政者は胸に手を当てて考えて欲しい。古い図面通りの再現に拘るあまり、切り捨ててしまうようなことはしないだろう。昔の物と同じでなければ認定しないというのなら、国宝にも世界遺産にも登録されなくても良いではないか。外の評価基準に右顧左眄する必要はないのだ。人に寄り添う仁こそ宝ではないか。

 そもそも、古いものに拘らない宗春なら新技術で余所にない新しい城を作るだろう。そんなオリジナリティがのちのち町の誇りとなるのだ。エッフェル塔、ポンピドーセンター……およそ当時の街並には不似合いな建物を許してきたパリの度量の広さ。だが、尾張名古屋が昔の城そのものでもっている、と堅く信じられているうちは、旧套墨守の日々も止むを得ないか。

西小路(1)なごや新地巡り

◎六角形の錣(しころ)屋根

宗春の許可によって開発された新地は三つあった。それを順にご紹介したい。

残された絵図は少ない。以前のブログ「赤色に……」で紹介した享元絵巻にも新地が描かれている。名古屋市博物館が精彩画像で紹介している。

http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/fine_portrait/lineup/new_screen3.html

西小路は左上部。現在の松原小学校~松原公園~東輪寺の西側に当たる。

そこを拡大してみると……

 西小路芝居前の様子。赤い傘を差しかけられた女性は大夫か?檜皮ぶきに天水の載った屋根の隣に藁ぶきの粗末な屋根もある。ごちゃごちゃとして迷宮のように楽しそうだが、写実的というわけではない。町の広がりと賑わいを示すことが主眼として描かれているから致し方ないところではある。

 ほぼ同じアングルで、あまり知られていない絵が次のもの。

 漫画のような享元絵巻に比べると人が小さく書かれ建物が際立って大きく感じる。天水桶に加え「うだつ」まである立派な屋根。中央のカブトガニのような建物が西小路芝居だ。藁ぶき屋根はない。上部の書き込みを口語にする。

 西小路は今は廃れて畑となった。もっとも栄える前も畑だったのだが享保十六年の冬の頃から縄張りができた。ついに三カ所の曲輪(くるわ)が現れ、その中の西小路というのは橘町の南の東輪寺の裏通りに堀を掘って作られた場所のことだ。最初は伊勢古市の妓楼の者一人が来て家を作り始め伊勢屋某と名乗っていたところ、段々建物が立ち並んで翌年の春には一部残らず出来上がった。芝居は西小路の町並みの中程西側にあり、その外観は他と異なり屋根が六角形に造ってある。かれこれ見聞きするにつけ、懐かしいことばかり。

 出典は名古屋市史編纂資料として模写されたもの。元の「尾陽戯場(芝居)事始」は名古屋で上演された演劇を時系列で記したもので挿絵のオリジナルは尾張家家臣高力種信(猿猴庵)の筆によるという。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001793

 猿猴庵なら元絵に色がついていると思うのだが、現時点で筆者には調べ切れていない。

 

◎卍型交差点

 右手の建物が西小路芝居より手前に迫り出してきているのをお気づきだろうか?

 「なごやコレクション」に地図がある。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00002032

 この地図の来歴は後回しにして上の絵に描かれた辺りをクローズアップしてみよう。

 星印の上空から見ると「尾陽戯場事始」の絵のアングルとなる。交差点を見ると鉤の手が組み合わさった卍型の交差となっている。どの道からも突き当りに見えて見通しが効かないが、進んでいくと正面に開け、右に開け、左に開けるわけだ。この辻だけでなく至る所が鉤の手となって「小路」の由縁となっている。名古屋城下は清州越しでできたので計画的に碁盤の目のような通りしかなかったから、迷路のような街づくりは新鮮だっただろう。

 家に居ながらこんな貴重な史料を見ることができるとは良い時代になった、とつくづく思う。

 

◎猿猴庵の想い

 地図によると絵の左右端の惣二階は「うら島屋」と「備前屋」という妓楼。芝居の右は酒屋と「なか屋」(屋号?)芝居の左は仕立て屋と煙草屋。浦島屋との間の細い路地は揚弓場に通じているのだろう。路地を伝わって「当た~り~」の声に続いて太鼓と嬌声が聞こえてきたのだろう。

 享元絵巻の藁ぶきの屋根の辺りは地図によると端女郎の小屋らしい。売春のためだけの小屋掛けを猿猴庵は意図的に備前屋の大屋根で隠し、全体として建物を立派に大きく描いているのかもしれない。

 図中の赤い印は享保二十一年四月に大火で焼失した建物を示す。賑わいは五年ともたず、また、元の畑に戻った。まさに夢の跡だ。

 猿猴庵にとっては生まれる前の出来事だが、異口同音に語られる空前絶後の遊所の姿を常々書き残したく思っていたことだろう。しかし、藩士高力種信という立場で蟄居となった宗春の時代の遊所を描くのはいかにも憚られた。そこで芝居本の挿絵として西小路芝居を描くに当たり周囲の家並を立派にしたのだろう。人もそれほど多くなく動きが少なく小さいから感情は伝わらない。だから良しとされたのだろう。

 ここで作者が問われるのは享元絵巻だ。みな楽しそうだ。石河家に伝来したという。描かせた当主は石河雅楽光当に相違ない。外には見せず、自分の若かりし日を独り懐かしんだのだろう。

 

◎「名古屋遊廓図」の来歴

 地図には明治時代に複写された旨が記されている。新しい物なのか?

 桃木書院図書館の蔵書が寄贈された神戸市に問い合わせたところ、神戸市図書館にはなかった。

 国会図書館で検索したところ、西尾市岩瀬文庫にあるものに同様の文字が入っているようだ。しかも「寛延三庚午年八月写之」と書かれているようだから、西小路の大火があった享保二十一年からわずか十四年後に地図ができていたわけだ。「遊女濃安都」はそれより早く成立し、手書きの拙い地図が入っているから不思議はない。岩瀬文庫には、別の新地「富士見原」の地図がセットであるそうだ。これはネット公開されていないから見に行くしかない。やれやれ、と春樹さんなら書くところだが、実のところ、わくわくする。

 次回は地図中の西小路芝居の枠外に書かれている部分を考察する。

どまつりの源流(2/2)

◎盆踊りが中断

 かくして盆踊りが始まった。

「町々踊、古今稀なる賑わい、衣装は様々見事なること也」(「遊女濃安都」)

 ところが三日目の十五日の朝、江戸から訃報が届いた。宗春の五女八百姫が去る十二日に二歳で早世したのだった。因みに五月には三女の八千姫が六歳で亡くなっている。城下には触れが廻り、当面十七日までは町中踊りは停止となった。「もう一日あったのに!」衣装を新調した町人らは、不完全燃焼だったろう。単なる中断でなく突然の訃報だったから意気消沈の度合いは大きかっただろう。

だが、それに続いた御触れに彼らは歓喜することになる。七月二十四日と八月一日に盆踊りをやり直す、というのだ。七七日も経たぬ前の盆祭りの催行決定は宗春しか出せない。まさに民を慈しみ、自らは忍んだわけだ。

 「遊女濃安都」の筆はその時の賑わいを懐かしむ。

「両日、盆中の通りに町々躍り、揚挑燈、掛行燈、美を尽くし、別して本町一丁目三丁目は、両側、京都四条通り両芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に、一枚看板、役者の名を書き、懸行燈、同六丁目中程は、十二月、年中世話事の影廻し致し置き候。同広小路四ツ辻には、古今大なる燈籠、諸見物群集す。京都川原の涼みの賑わいにも増したるべきとの評判。」

 先代には盆提灯にも火を灯すな、と禁じられていたのに、広小路と本町通の交差点に「大灯籠」が登場し、本町六丁目には「アニメ動画」である走馬灯が月ごとの年中行事を映していた、というのだ。

 

◎下屋敷の面影

 高禄の武家は上屋敷、下屋敷、中には中屋敷を持つものがいた。後に記すかもしれない江戸戸山の尾張下屋敷は奇々怪々のテーマパークだった。名古屋の下屋敷も広大な回遊式庭園でその中に茶店や寺社、模擬店などがあり、なかなかの奇々怪々ぶりだったらしい。現在「御下屋敷跡」は生涯学習センター前に史跡の案内板があるだけで何の痕跡もないが、その敷地の南西端が今の名古屋園芸で、北東端は水筒先北交差点に至る。

 黒は現在の施設だ。赤い部分は寺で、今も芸術創造センターの西側一帯には多くの寺が残ている。第二次世界大戦後、小川交差点から南に真っ直ぐの広い道路を通してお墓も移転したために寺域は切り刻まれてしまったが、「法華寺町筋」の通りは今も健在だ。だが、その名は今に残っていない。あの日、あれ程賑わったというのに……。

 

◎下屋敷でオールナイトで大踊り

さらに踊りは続いた。

先代継友が経費節減のため下屋敷内の一部の御殿を棄却していたが、宗春は、おそらく尾張を相続してすぐに、新築を命じた。それがめでたく竣工し、おそらくその祝いも兼ねて子どもを含む町々の踊り連を招き入れたのだった。

「遊女濃安都」に段取りが詳しい。前日に町の代表を招いてくじ引きで番を決めたという。

「二十二日朝六ツ時より初り、順々にまかり出、これを相勤める。七十九番までこれあり候」

 二十二日に朝六時から始まって七十九番まであった。

「もっとも、町々だし作りもの、右番付を相印、暁七ツ頃までに終」

 各町の山車や作り物に番号を記したので祭当日の午前四時にやっと終わった、と追加しているところを見ると参加者が書き足したのだろう。番号を記したのはコンペだったからだ。プレゼン前の熱気が伝わってくる。

「法華寺町の寺々に二町三町づつ宿札を打、休息いたし、番選にてまかり出、そのほか、町家にても、代官町・法華寺町上屋敷方へも、縁を以って幕を打、休息所とし、不明御門より鼠壁御殿前御門前迄、茶店大分出、大賑合なり」

 法華寺町の各寺に二三町を割り振って控え所として出番に備え、町家や代官町や法華寺町の上の武家屋敷でも縁台の周りに幕を引き回して控え所とした。屋台の茶店がたくさん出て大賑わいとなった。不明(駿河)門は下屋敷南、鼠壁御殿は下屋敷内の北西あたりにあった御殿の事かと思われる。踊り手は正門から御殿の前庭へ踊り込んだのだろう。

「大人子供も帷子に金紋をき、衣裳に緋純子、島繻子、緋縮緬の類を着て踊申候」(「月堂見聞集」)

 お殿様の御屋敷を訪れるのだから下に着る帷子から金紋入りで赤い緞子、縞の繻子、赤の縮緬など高級な衣装で踊ったという。

「品々作り物、掛行燈、笛、鼓、太鼓、三味線、皆々、自分町より道行打囃子にて参り候。見物群集す」(「遊女濃安都」)

 自分の町から城下を囃しながらまさしく鳴り物入りで来たから、つられて見物も集まったわけだ。

 蓬左文庫の「夢の跡」によれば西国の森右衛門という大男の相撲取りを張りぼてで作って担いだり、将棋の駒の灯籠を頭に載せるといった趣向があったという。

 一等には金二両、すべての踊り連に褒美や尾張家重臣から料理が振る舞われた。以前と真逆の踊りの対応はがっちりと町人の心を掴んだだろう。

 明六ツから始まった祭りが終わったのは翌日の四ツ(午前十時)というから、28時間ぶっ続けのダンスコンペティションだった。

 

どまつりの源流(1/2)

◎名古屋が踊る

今年のどまつり(にっぽんど真ん中祭り)は愛知県内23カ所で行われるそうだ。

今から287年前の名古屋で史上空前の大規模な盆踊りが行われた。「月堂見聞集」によれば名古屋城下175カ所!それに続いてのダンスコンペティションは28時間ぶっ続け……。

どまつりの歴史はまだ浅く江戸時代にルーツがあるわけではない。だが、規制から解放されて、囃子に合わせて町で踊った人々の情熱のDNAは今に続いているに違いない。

 

◎禁じられた踊り

阿波踊りを仕切っていた観光協会が赤字つづきで徳島市主導となり、今年は総踊りをやる、やらないで内輪もめとなった。踊りを観光の目玉にしようという魂胆がそもそもよろしくない。「……見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と唄っておいて大掛かりな観覧席を作って損をしてるというのは既に阿呆を通り越している。三十年前に阿波踊りのシーズンに行ったのだが踊る場所が無くてがっかりしたことを思い出した。踊りのスタイルはいろいろあろう。郡上踊りには、見るだけの阿呆はいない。誰でもいつでも同じ踊りの輪に出入りできる。しかも駐車場あたりでは街はひっそりしている。城下町の角を曲がって踊り子の姿が見えると同時に囃子が聞こえるから町々に小さなスピーカーをいくつも配しているのだろう。騒音対策として関東でイヤホンで盆踊りがあるというが、それでは体に響く音がないし、その場の一体感がないだろう。郡上方式を教えてあげたい。

鳴物に合わせて身体を躍動させる踊りは理屈ではない。踊りたいから踊るのだ。踊るなと言われると益々踊りたくなる。事実、江戸時代は踊りが制限されていた。もちろん騒音は問題ではなく治安維持、風俗紊乱を防ぐためだ。

 

◎異相なる体を禁ズ

先の継友代には踊りに対する制限が山ほどあった。享保七年の町触(まちぶれ)から禁止の細目を見ると当時の庶民の盆踊りに対する創意工夫の情熱が見える。

「装束を拵へ、裏又は家の内は躍り候儀、猶更まかりならず候。芸人を雇ひ物真似などいたし、三味線を入れ、床台を出し、提灯を灯し、其外異相なる体、致すまじく候。かつまた、作花・作物などを持ち候儀、または獅子の舞などいたし躍候儀、まかりならず候。申すに及ばず候えども、他町はもちろん、寺社あるいは諸士屋敷などへまかり越し躍り候儀、堅く仕るまじき事」

衣裳を作って家の裏や内で踊ってはならない。芸人を雇って物まねなどさせ、三味線を弾かせ縁台を出し、提灯を灯し、その他、普通でない姿をするな。花や小道具などを持って、または獅子舞をして躍るのもいけない。いうまでもないが、他の町はもちろん寺や神社、武家屋敷へ踊り込むのも絶対にしてはならない。

通りを挟んで同じ町内だったから、町内表とはその表通りのこと。町内裏とは通りに囲まれた1ブロックの真ん中、閑所(会所)と呼ばれた共有スペースで今ではタワーパーキングになっている。その表でなく裏でも踊ってはならぬという。踊りのパワーを怖れる理由は、最後に見える。町人が踊り集まることで高揚し、武家や寺社に祝儀を強要し受け入れられなければ騒動を起こすのではないかとの統治者の怖れがあったのだ。

さて、次のお殿様といったら、普段から鼈甲笠に緋のお召といった自ら異相なのだから、町人の期待が高まらないわけがない。

 

◎女と青少年を守れ

享保十六年七月八日、期待通りの触れが出た。「をとり」=踊り

「男形をとりの儀、当年は装束・衣類拵え候てをとり候とも、少しも御かまへ無しの候間、勝手次第にをとらせ申すべし、との御事に候」

 男の踊りについては、今年は衣裳を作っても全く構わない。好きなように踊らせよ、との仰せである。

男らは好き勝手にやれとの触れなのだが、実はこれには前段がある。

「盆中をとりの儀、町々女・子ども十四五才より以上の者、町中ならびにその町内表にてをとり申す儀遠慮仕るべく候、若々不埒にても出来申し候へは、その身のためにも宜しからず候間、この段町々女・子どもこれある町申し渡されるべく候、家内裏にてをとらせ申すべく候、その内十四五才よりの内の女・子どもは、只今迄の通り勝手次第に候」

 筆者はこの件を理解するのにかなり時間を要した。まずは、文字通りを現代語にしてみる。

盆踊りについて、各町の女と子ども14、15才以上の者は、町中や自分の町の表通りで踊るのは遠慮したほうがよい。若し不埒にも出て来ると身のためにならない。これについて女・子どものいる町に伝えよ。家の裏で躍らせなさい。女・子ども14、15才未満なら今までどおり勝手次第とする。

最初の「以上」は以下の間違いではないかと最初考えたが、それでは付帯の今までどおりと付帯する必要が無くなる。そこで「今までどおり」とは何なのかを探したところ、先に引用した享保七年の町触に糸口があった。

「盆中町々にて子ども躍りの儀、常々の衣類にて、町内表に限り躍り候様、年々申し付け候通り」

 規制の厳しかった頃でも子どもによる踊りは表通りで踊って良かったというのだ。可愛らしくて心を和ませたのだろう。

というわけで、付帯部分、女・子ども14、15才未満というのは男女13才以下の子ども躍りは表で踊っていいよ、と解せる。当時はペドフィリアなどという観念は無かったと思われる。

一方で踊りの遠慮を勧められた者たちも当時の恋情の在り方を考慮すると見えてきた。すなわち、「女と子ども14、15才以上の者」とは若い女と元服前の青少年のことだ。若い女の踊りが本人の意思に関わりなく扇情的であったであろうことは想像に難くない。加えて往時は男色を好む者たちにとって青少年の踊りも十分に扇情的だったのだろう。宗春本人がどうだったか定かではないが、衆道を禁止したわけではないことを付言しておく。生産性などと無粋なことを言うはずがない。恋愛も踊りもno reason。それは生が勢いよく燃えて輝く瞬間だ。

赤色に込めた心

◎襤褸は着てても心の錦

昨日の朝方、行方不明の二歳児発見の報には、子どもをしっかりと抱いて歩く、赤のねじり鉢巻きのおじさんの後姿があった。夜のニュース。家に上がるよう勧められても「ボランティアで来ていますから」ときっぱり断った救助者。ボランティアの鑑のような振舞いの頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。今日の「ビビット」のインタビューでほころびのあるザックの事を訊かれ、「まだ、新しい。たった38年です。(笑)日本は資源が少ないが、知恵がある」と即応された。かっこいい。物質主義への痛快な一撃。その頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。無償の人助けの心意気はどんな花よりきれいだぜ!

 

◎傾奇者と笑われようと

 顔を見せず籠に乗って移動するのが殿様のステイタスだった。家臣にとっては殿様のお目にかかる「御目見え」が済んでいるかどうかがステイタスだったのに、宗春は惜しみなく民に顔をさらした。しかも、古今東西の殿様がやらなかった姿だ。「遊女濃安都」から引用する。白牛を金四百疋=一両で買った、という記事に続いて、

「諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙(あぶみ)置き候て、猩猩緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通りにて、御衣服、これまた時々替り候へども、つねとても、御頭巾、唐人笠、五尺ばかりの御煙筒御持、奥御茶道衆その先かつぐ」

 参詣の際には白牛に鞍と鐙を付けて、猩猩緋の装束、時々模様は変わるが大方は右のとおり。まとう物もこれまた時々替わるが頭巾、唐人笠、五尺(150㎝)くらいの煙管を御持ちになる。これは先端の雁首を茶坊主が担ぐ。

 頭巾と唐人笠の説明は国入りの部分にある。

「浅黄の御頭巾・鼈甲の丸笠、右笠の縁、二方、巻煎餅のごとく、上へ巻き上がり、唐人笠の如く」

 これは読んだごとく。浅黄と浅葱とは違う。浅葱色の頭巾では鼈甲色と合わない。因みに浅葱裏はダサい田舎侍の別称でもある。

 宗春の姿を今に伝える「傾城妻恋桜」絵入狂言本の絵に着色してみた。元の模様は活かしたが千鳥と波しぶきに赤い空ではさすがに合わないが…。

 長い煙管の意味を考えて管の部分が長いことに着目した。竹の管は羅宇:らう(らお)と呼ばれた。元々ラオス産の品が用いられたのが語源とも言われる。

粋な仁者よ

御三家さまは

白いお牛の背に揺られ

鼈甲笠に緋のお召

尾張長らう(羅宇)長煙管

この歌は筆者の創作。さて、宗春の赤(緋)にはどんな決意があったのだろう。

 

◎家中も染まる

 当主に倣って供回りも派手になっていく。同じく「遊女濃安都」から。

 「所々御成の節、御供廻りの衆中、ならびに御目見の輩、股引・半てん・はばきにて、膝の下、三里灸穴際までこれあり候衣服、両袖下、脊縫下、七八寸ほどわり、火打をひらひらと付、尤、火打紅縮緬、紅どんす(中略)思ひ思ひに出立、その花やかなる事、筆書にも言葉にもいひたらずと也」

 御成りの際、下士も上士も股引・半纏・脚絆でひざ下まで丈がある衣服の両袖下や背縫いの下の部分を二十数センチほど割って赤い裏地を付けて火を打つように目を奪う。紅縮緬、紅緞子など思い思いに仕立て、その華やかなことは筆舌にも尽くしがたい。

 やはり、ここでも赤が目を惹く決め手となっている。

 

◎街中に溢れる赤

 後の江戸の街を描いた「熙代勝覧」では赤は子どもの着物か女帯くらいだ。リクルートスーツのように目立たない色で質素倹約に恭順の意を示していた町人たちは、殿さまや家来衆の赤をどう思っただろう。

 宗春治世の享保元文期の名古屋を描いた図が享元絵巻だ。

 図は七ツ寺あたり。一見して赤い着物が目立つ。名古屋に赤が溢れ、見た目が華やかになり、町人も嬉しそうだ。もう自分を隠す必要はない。派手な着物で目立って良いのだ。

 傾奇者、奇矯だ、と笑われようと白牛の上の紅一点は、規制撤廃の強い意志と共に町人にしっかり受け止められ城下の隅々まで急速に広がったのだった。

eスポーツも温知から?

◎人は新し物好き

 Eスポーツがアジア大会のデモンストレーション競技となる。ゲームのやり過ぎはダメ、と言われていたのに選手は一日十数時間没頭するらしい。一昔前はTVばかり見ていてはダメ、一億総白痴化と言われたものだが、今はTV離れという。変われば変わるものだ。蓋し人の興味の的は次々と移っていくのだろう。江戸時代、芝居は風俗を乱すからダメ、と興行が制限されていた。

 

◎執政を遣わし芝居解禁

 名古屋には芝居の常打小屋がなく、芝居地や興行期間も制限されていた。尾張家中の芝居見物は享保八年から禁止されていた。それを宗春は緩和どころか一気に規制を撤廃し、若者には、一度は見るように、と薦めさえしたのだった。宗春代の出来事を複数の者が書き足した「遊女濃安都」から書き出す。

「芝居の入口に、刀差・冠物にて見物無用と札打ち置き候所、五月朔日に、御側同心頭成瀬豊前守殿上意を蒙り、芝居芝居の右札、御自身直に指図にて取られ…」

 芝居小屋の前に「刀差しや編笠など被り物の者は見物禁止」と書かれた制札を五月一日に側同心頭の成瀬大膳が上意によって自身が出向いて札を取りさらせた、というのだ。前にも引いた「月堂見聞集」にはさらに詳しい様子が書かれている。

「成瀬大膳は(中略)殿様仰せに、所々宮寺に刀脇差の札外聞悪しき候、取り申すべく候の御事ゆえ、年寄衆へ此儀尋ねなしに、馬に乗り大勢の家来召し連れ、所々宮寺へ札を取りに廻り申され候」

 執政の大膳が宗春の直命を受けて尾張の重職に相談することなく、馬で家来を引き連れて神社や寺の芝居地の札を取って廻った。

 制札の撤去とは何とも分かりやすく迅速な規制撤廃方針の表明ではないか。しかも執政を現地に向かわせたから驚きを以て噂が広がり京までしっかり情報が伝わった。

 

◎大名初のマニフェスト「温知政要」

 宗春は思い付きで芝居を解禁したわけではない。名古屋入りを前にした三月に記したマニフェスト「温知政要」に既にあった。

写真(「温知政要」河村秀根本、名古屋市鶴舞図書館)で見えている序文の二行は

「古より国を治め民を安ん

ずるの道は仁に止ること也とぞ」

 訳すまでもなく仁政を行うことの表明だ。序文の最後にはこれが「誓約の証本」であると明記しているから、法度ではなく自らを戒めるマニフェストと言えよう。見返しに大きく赤く「慈」と記したのは太陽のように家臣、領民を慈しむ決意を込め、最後の「忍」は辛いことは独り月のように耐え忍ぶ決意を込めた、と続くの条に記してある。

 「温知政要」の二十一の条目の要旨は以下のとおり。なお、原本には数字はない。

一、大切にするのは「慈」「忍」の二文字。慈しみで陽の光のように下々まで照らし、辛いことは一人で心の内に耐え忍ぶことを誓う。

 ――心の内の悩みを表に出して近習にあたった兄達を反面教師とした。

二、慈悲は武勇や知謀に勝る。

 ――武勇の信長、知謀の秀吉の後に幕府を開き今日まで代を重ねている家康の慈悲の心の優越を例に説く。

三、政と刑罰について。政は誤ったら改めれば直るが、人への刑罰は取り返しがつかないことがあるからよくよく吟味すること。

 ――試行錯誤も厭わない思い切った施政開始の宣言だ。大罪を犯人一人の所為(せい)とせず、その背景を吟味し政の誤りこそを正していかなければならないという決意の表れだ。

四、初心を忘れない。最初は賢君と称えられたいと努力するが、慣れてくると私欲に溺れてしまう。

 ――秦の始皇帝、唐の玄宗皇帝を例に戒めている。

五、学問の目的は、生まれつきの本心を失くさず心を素直にし、行いを良くすることである。学問を積むことによって邪まな知恵をつけ人を誹り馬鹿にするようになってはならない。

 ――人の上に立つ者は慈悲憐憫が第一の学問であると付言している。

六、適材適所。能力を発揮できない者は、役を申しつける上司の判断に責任がある。才気があり弁舌が巧みでも心がねじけている者は、国の害である。才能がない者でも律義であればそれだけで徳である。

 ――才より心が何より重要であるとする。

七、ひとりひとりの好みを尊重しよう。自分の好き嫌いを他人に強いてはいけない。喜び悲しみに共感する思いやりを持とう。

 ――多様であることに寛容であれ、とする。

八、多い法度は、人から気力をそぎ、心を狭めいじけさせてしまう。瑣末な法令は撤回し止めるべきだ。法度が少なければ背く者が減り心優しくなる。

 ――瑣末な法度を乱発した享保の改革への批判だ。

九、倹約が過ぎてやたらと省略するばかりでは粗悪なものが増えて作り替えねばならず、結果として勿体ないことになる。あらゆるものには価値がある。要不要を厳しく吟味し過ぎると多様性が失われ品質も下がる。作る者への利益となるものならば高くても良いものを永く使おう。

 ――これもまた質素倹約への明らかな反対表明だ。

十、善政への改革でも臣民の協力と盛り上りがなければ成し遂げられない。

 ――理屈だけでは社会は動かず、風潮が重要であることを認識する。独善の君子でなく、傾奇者と嗤われても大向うの評判を取るという決意だ。

十一、自分の勤めるべきことさえ怠らなければ心が苦しむことはない。寒い目にあわなければ暖かさを知ることはない。

 ――子どもを甘やかして育てることに警鐘を鳴らす。

十二、神社仏閣での見世物や茶屋などを許可する。繁盛し人が集まり騒動が起こるからといって免許を停止するのは軽々しいことだ。騒動の原因が侍の方にあれば侍をしっかり処罰する。そうすれば政が信頼され風俗もよくなる。

 ――身分を超えた楽しみの共有を目指す。

十三、万事に関心を持て。他の地域の者と逢ったら風俗・土地・山川のことを訊(たず)ね、そこでとれる物の善し悪しまで興味を持つようにせよ。

 ――産業の振興には情報が重要というわけだ。

十四、すべての芸能や技芸は奥深いものである。自分が未熟であると謙虚であらねば上達は望めない。

 ――芸能者や職人が芸を極めようとする姿勢に対して尊敬の念を持つ。

十五、若者に異見する際は頭ごなしにしてはいけない。自らの若い時のことを思い出し相手の言い分も認めて言い聞かせること。

 ――若者に共感する姿勢が大切という。

十六、どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 ――前項同様、若者の再起を見守る寛容な視線は、過ちを繰り返した自らの半生の肯定でもある。

十七、倹約だからといって人を減らしては万一の備えとならない。火事などの急な折に少ない人数を防火や道具の避難など多方面に分散させては機能せず死傷者が多くなってしまう。どれだけ高価で尊い宝物でも軽輩一人の命には代えられないことを肝に銘じよ。

 ――人件費の抑制が人命を損なうことに繋がってはならない、と人命尊重を高らかに宣する。

十八、下々の者の思いを知らねばならない。実情を身をもって体験しないとどんな慈悲の心も届かない。但し、物の値段までも知るようになっては下々が痛み苦しむようになる。

 ――米の相場操縦に熱心な八木(はちぼく)将軍吉宗を暗に非難している。

十九、国を治める者は人や国に利益のあることでも急に行えば動揺が起き思うようにならないから時間をかけて行うべきだ。但し、人の痛みや難儀に関わることは速やかに改め直さねばならない。

 ――だから皆、長生きしなければならないという。

二十、改め直すことがすべて良いことだとは限らない。諸人の意見に耳を傾けねばならない。

 ――改革への想いが強い自らへの戒めであろう。

二十一、上から下まで私欲を捨て正しい筋道に叶うよういつも考えを巡らせよ。譜代の家臣、代々の藩主に取り立てられた家臣にも平等に憐憫を加えなければならない。

 ――部屋住みの頃、自分への仕打ちに不満を持って恨みを持ったことをあさましい心として反省している。江戸へ来た年に死んだ朝倉や金森への詫び事にも聞こえる。

 

 いかがだろうか?筆者は初めて読んだときに目を疑ったものだ。啓蒙君主しかもリベラルな考えが横溢しているではないか。

 

◎夢を育む政治

 温知政要というタイトルを真正面から論じたものを未だ知らない。政要は政治の要点で間違いなかろう。温、知を使った四字熟語は温故知新が有名だが、それが上記の斬新な考えに相応しいとは思えない。

 私は、温をincubateのイメージ、「そのままを大切にして温める」ことだと考える。すなわち、人々がもっと知りたいと思う気持ちを大切に育むことではないだろうか。知らないことを聞きたい。新しいものを見たい。それを「見てはならん聞いてもならん」と法度で押さえこんでしまっては人は育たない。機会を与えてこそ、その生まれ持った立派な本性が花開く。勉学だけに止まらない。珍しい味。香(かぐわ)しきもの。恋というものもしてみたい。生きる活力の元である種々の欲望、すなわち夢を育むのが宗春の政治の要点だったのだ。かくして宗春の治政を振り返る書は「夢のあと」の名があるのだろう。

 宗春は間違いなくロマンチストだ。だが、目先の利益を追う小賢しい昨今の政治が失ってしまった大きなロマンがそこにあったことを知って欲しい。

殺人と謀反の噂

◎宗春、女中殺しの場

 前に宗春は人命最優先と書いたが、少し宗春を齧ったことのある人からは、「本当にそうなの?女中を刺し殺したとか、軍備を整えて大規模な軍事演習をやろうとしたと聞いたことがあるよ」との指摘があるかもしれない。小説や学術的な書物にも史料批判無しに引用されるからこのような間違いが起こる。後世の雑本の記事はネタとしてかくいう筆者も使っているが、宗春の本質に反する事については看過できないので釘を刺して置きたい。

 まず、女中殺しの出典は「趨庭雑話」だ。

「章善公(宗春)へ、何れの諸侯やらん、書簡を参らせしを、公、窃(ひそ)かに読み居たまひし所へ、出頭の御女中、御うしろより流目してすぎければ、御手早く其書簡懐中し給ひしが、其夜、彼女中御伽せられしに、夜深く寝入りたる所を、御枕刀にて刺殺し給ひしとぞ。是を以て、その御志シの程を押しはかるべしと、御物語也」

 宗春が書簡を密かに読んでいたところへある女中が後を流し目して通り過ぎた。宗春は手早く懐に仕舞ったが、その夜、その女中に夜伽をさせた際に寝入ったところを刺し殺した。近習に「我志を押しはかれ」と語った。

 まるで忠臣蔵一力茶屋の場のようだ。遊女お軽が由良助の読む密書を手鏡で覗いて、気付いた由良助に殺されそうになる、という場面にそっくりではないか。「趨庭雑話」は尾張家で語り継がれた噂話を後の世にランダムに集めた書物だ。残念ながらその多くは藩士の夜話で語られた与太話であろう。蟄居謹慎となったのは将軍と覇を争った結果だと強がりたい家臣の気持ちはわかるが、内容の信憑性は乏しいと言わざるを得ない。

 

◎大丸へ具足四万領発注

 平成二十二年の大丸と松坂屋の合併には感慨深いものがあった。京の大文字屋が大丸と名乗ったのは名古屋の出見世が最初だ。当初、その現金、掛値なしの新しい売り方は松坂屋など茶屋町の呉服店との間に軋轢を生じていた。そこへ登場したのが誰あろう尾張家当主となった宗春だった

 『大丸二百五十年史』によれば明治二十一年に発行された「大丸屋騒動実記」に次のような記述があるという。

「彼吉原御全盛の御遊はじめ此度御国入に付、御衣裳のご用は皆大丸屋がご用勤めしとぞ。是にて非常に売徳を得し。尾張宗春卿には、御国入の後小牧山にて御鹿狩の思立にて其旨仰出されければ、(中略)国中の勢子、ご家人など都合四万の人数用意致すべしと仰出されけるが、此度のご用向諸式すべて大丸屋彦右衛門へ仰付られける。因りて大丸屋は手分けをなし、先ず銅(胴)の黒塗に、丸に八の字印しの陣笠、皮具足、小手、すね当、鉄鎖の肌着等四万人前、はっぴ小印、陣羽織、幕等何一つ落なく御用を承はれば、彦右衛門のいそがしき事たとふるに物なく、遂に夫々手順よく、七月下旬までに皆残らずこしらへ上げて納めけり。」

 吉原での遊びや御国入りの際の宗春の衣裳は皆大丸屋が納入し非常に儲かった。御国入りの後、小牧山で鹿狩りを行うとのことで、尾張国中の勢子や家臣の家来の具足四万人分すべてを大丸屋が受注した。手分けして黒塗りの胴、丸八印の陣笠、皮具足、小手、脛当、鎖帷子など四万領や付随する法被、陣羽織、陣幕等残らず受注した彦右衛門の忙しさと言ったらない。それでもついに七月下旬には皆残らず仕上げて納品した。

 地元の呉服屋は面白くなかっただろうが、大丸屋でも下請けは名古屋だったはずだ。なにせ三ヶ月足らずで四万セットを納品しなければならないから、全数を京へ発注していたら連絡や運搬の時間でとても間に合わなかっただろう。

急がせたものの小牧山で大規模な牧狩りが行われた記録はない。そもそも遊びで鹿狩を行うのは、殺生を嫌って鷹狩を止めたことと矛盾する。いずれにせよ、この発注が軍備を整えたという噂の元だと考えられる。だが、発注の中身は具足のみで武器はない。一揃えを一両で見積もれば四万両、時価にして四十億円を市中に還流する財政出動が目的だったのではないか。さらには、既得権益にしがみつく地元の商人でなく、現金掛け値なしの公正な商いスタイルを行う大丸を応援したのかもしれない。

 

◎吉宗と宗春は即レス?

 倹約と規制緩和という正反対の政策や最後に蟄居謹慎となったことから吉宗と宗春が反目して対立していたという観点から語られることが多い。だいたいは宗春が敵役のやんちゃな御三家として描かれる。ところが同時代の随筆「月堂見聞集」によればこの二人は親書を交わしていたというのだ。

「尾州中将宗春卿御家督御相続相済候処、御心入寛仁に御座遊ばされ候、将軍家と御中能(なかよく)、御直筆にて、毎日江戸より名古屋へ、御状箱往来御座候、右御状江戸御年寄衆、名古屋御年寄衆拝見仕(つかまつる)事成り申さず候。」

 中将として書かれているから家督を相続して間もないころ、すなわち享保十六年の初めてのお国入りのことと考えらえる。右筆を介さず、重臣らが見ることのできない状箱に入った手紙が毎日往来したという。毎日書いたというのではなく、返信をすぐに書いて毎日飛脚が東海道を走っていた、ということだろう。この頃の二人の仲は決して悪くはなかった、と見てよいのではないか。

宝泉院遺品 松橘蒔絵長文箱(徳川美術館「徳川宗春」図録より)

 

◎磨りガラスの遠眼鏡

 「月堂見聞集」には、この他にも興味深い記事がある。著者の本島知辰は京にあってなぜ知り得たか?情報入手の手段は記事の末に書き添えてある。

「右の書付、尾張御家中より申来候由」

 他の記事も知辰は、私見を加えず、見知ったことを淡々と書いている。浅学ゆえその背景はよく知らないが、尾張家中に血縁者か俳句仲間がいたのだろう。いずれにせよ、「月堂見聞集」は公開を目的としない同時代の随筆であり史料的価値は極めて高いといえよう。

 一方、先述の「趨庭雑話」にある女中殺しの話は、信憑性を欠き、多くの憶測を生んだ。宗春の輪郭をぼかす磨りガラスでしかない。これでは歴史望遠鏡のレンズにはならないばかりか、宗春の人となりの究明にとって妨げでしかない。

犠牲は御無用

◎千金の宝物も人命には替えらえない

宗春の著したマニフェスト「温知政要」で火事への備えについて書かれた条がある。

 火災の際にすぐに集まることができる人数が意外に少ないことを念頭にして、

「多からぬ人数を方々へわけて、火も防がせ、道具の支配も致させ、いろいろのことに使ひては、いずれの方の間も合わず、死傷の者多くできるよりほかあるまじ。たとひ千金をのべたる物にても、かろき人間一人の命にはかへがたし、これらの類、皆々上たる者の勘弁なく不裁許より起る事なり。」

 少ない人数の者らに、やれ延焼を防げ、やれ伝来の道具を守れ、などと色々なことを命じてはそれぞれ中途半端となり死傷者が多く出てしまうであろう。貴重な道具であっても軽輩一人の命に替えることはできない。こんなこと(道具を守るために命を賭すこと)は上に立つ者に弁えが無く判断を示さないところから起こるのである。

 上に立つ者、すなわち宗春自身への戒めと読める。人命優先は今でこそ当然のことだが、敢えて書かれているということは、当時は当たり前ではなかったからだ。

 

◎「腹蔵」の美談

 先年上演された「染模様恩愛御書」は、いわゆる血達磨物といわれる歌舞伎演目だ。血達磨と聞くとプロレスの流血のように血まみれになる状態を思い浮かべるが、話の基になったのは肥後細川家に伝わる血染めの達磨の軸の由来譚だ。細川綱利に恩義のある大川友右衛門が江戸藩邸の火災の折,家宝の達磨の掛軸の焼失を防ぐため切腹して腹中に収めて守ったという。史実としてはかなり怪しい。腹に入る掛け軸は相当小さいだろうし、そもそも血まみれになっては守ることになるのだろうか。だが、ここでは史実であるかどうかは当面重視しない。命を賭して伝家の宝物を守ることが忠義である、と当時一般に考えられていたかどうかが肝心だ。血達磨物は、正徳二年、京都布袋屋座で「加州桜谷血達磨」として上演されたのがその始まりとされる。すなわち宗春が温知政要を著した時にはすでに細川の血達磨の話は人口に膾炙していたと考えられる。

 この共通認識に立って、宗春は、蔵番のような軽輩であったとしても宝を守るために命を捨てさせてはならない。美談として称賛するから命を落とすものが後を絶たないのだ。軽々に命を捨てるは忠義にあらず、というのだ。

 

◎犠牲は美しく見える

 私たちは不用意に災害による死没者の事を犠牲者というが、犠牲という言葉には元来、何かの目的のため、という前提がある。共同体の望みを叶えるために動物の生贄や人身御供がなされた。捨身飼虎、贖罪、と宗教に取り入れられて犠牲は崇高な文化となってしまった。「銀河鉄道の夜」「幸福な王子」…自己犠牲は退廃的で甘美ですらある。容易に人の心を惹くから、滅私奉公、御国のために桜のように散れと戦意発揚に利用された。

 決して昔の事というわけではない。犠牲バントは原語からの和訳とはいえ、犠打で一死、と続くと犠牲と死の結びつきは強固となる。命がけで頑張ります!体を張って頑張った。……犠牲を顕彰する伝統は今なお私たちの中に根強く残っていると気付く。犠牲心溢れる人を褒め讃えるのは、村のためにマンモスと闘って亡くなった者を讃えた原始の血が騒ぐのだろうか?あるいは隣の部族と闘って戦死した勇者を神に祀り上げて若い戦士を鼓舞するためなのか?

 国家主義が性懲りもなく勢力を増してきた昨今。「主君のため」「御家のため」に犠牲になるな、命をささげる必要はないという宗春のメッセージは今も新鮮だ。

 今後は、戦争の犠牲者といわず、単に戦没者、被害者と認識すべきだろう。 

◎席次のどん尻

 宗春治政から半世紀以上後の享和年中の成立とされる「尾州家官制」は、藩中の席次を示したものなのだが、役名だけではない。成瀬、竹腰の両御附家老から始まり

六百に近い役と門閥家名が入り交じり序列が定められている。

 蔵を管理する御蔵方は最後に、しかも字下げされて記されている。宗春は、この家臣中序列最下位の「かろき人間」の命をも尊重したのだった。のみならず、門閥でない家臣をも積極的に登用した。家臣だけではない。領民を同じ人として見た殿様だった。…その証左はまた後日。

鳥と宗春

◎高田祭り

 平成三十年五月二十日、養老町の高田祭りに行った。宗春と縁のある(やま:車篇に山)の本楽が行われるのだ。すでに巡行は始まっていたが、程なく目当てのに追いついた。道の両側にはすでに屋台が軒を連ねて仕込みにかかっており、が差し掛かると長い庇をひょいと跳ね上げる。怒号が飛び交う殺気立った雰囲気ではなく、綱持つ引手、楫(かじ)棒に体を預ける楫取り、羽織の町衆も余裕をもって毎年繰り返される祭りの光景を楽しんでいるように見受けられた。

 現在、高田祭りで巡行する三輌のは岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている。お目当ての林和靖は全国で高田祭りだけに残るからくり人形で、宗春の人となりを知る上で特に重要だと私は見ている。

 午後になってからくりの本楽が奉納された。菜の花を啄(ついば)む鶴を唐子が叱って追い払うが林和靖が宥(なだ)める。鶴が羽を広げ唐子が正面を向き林和靖が軍配を挙げて大団円となる、といった物語になっている。微笑ましい春の風景だ。

 

◎東照宮祭 林和靖車

 高田祭りの人形の来歴は定かではないが、林和靖がからくり人形として本邦初登場となったのは享保十八年四月のことだった。宗春二度目の国入りに当たるこの年の東照宮祭は、「遊女濃安都」によれば家臣の騎馬隊に続き星野織部が宗春の名代として加わり三四町も行列が続く賑やかさだったという。これに合わせて伝馬町の車が新調されたのだ。

 内藤東甫の「張州雑志」の口絵を見ると林和靖、唐子、丹頂鶴、花をつけた梅の木と高田のと同様の構成だ。高田の方は林和靖の上着に亀甲を用い、伝馬町は横幕にそれを用いて亀を表わし、鶴との目出度い取り合わせとしている。ただ、伝馬町の籠にあるのは高田のような菜の花ではないようだ。確かに菜の花は梅の花とは少し季節がずれる。

 名古屋まつりのわらべうたに「猩々酒飲む、鶴は芹」とあるが、絵には何種類かの植物が描かれているようだ。芹といえば七草の一つ……この籠盛りは春の七草ではなかろうか!

 

◎林和靖

 林和靖は北宋の隠遁詩人で妻帯せず梅と鶴を愛して一生を過ごしたという。貞享三年には日本でも「和靖先生詩集」が茨木多左衞門によって刊行されており、宗春の時代にもよく知られていたらしい。

 七草は日本の風習ではないかと調べてみたら、中国には「七種菜羹(しちしゅさいこう)」という七種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べて無病を祈る習慣があったそうだ。これを一月七日(人日:人を殺さない日)に行ったという。

 

 私は伝馬町の町衆が慈しみの政治を目指す宗春を賞揚し、林和靖の姿に仮託したのだと考える。

 

◎殺生は無用

 享保代に京の本島知辰が綴った「月堂見聞集」に次のような記事がある。

「御前御機嫌の節見合せ、成瀬隼人正、御国の御政道古来よりの咄(はなし)畢(おわり)て、御慰(おなぐさみ)に鷹狩に御出(おいで)しかるべしと申し上げられ候へば、御請け遊ばされ、後日御出の朝、御城へ隼人正を召され、殺生は無用、それより諸士共に武芸を嗜み申すべき由仰せ出でられ、隼人正は私宅へ帰り、数々の名鷹を放し、在所犬山へ引越し、久々出城仕らず候」

 御附家老成瀬隼人正が新藩主に御政道の伝統を滔々と語り聞かせて、御機嫌取りに鷹狩に誘うと宗春は受けた。そして鷹狩の朝、隼人正は狩り装束で登城しただろう。ところが宗春は「殺生はならぬ」と鷹狩を拒否した。隼人正は自分の飼っていた鷹をすべて放鳥し、領地の犬山に引っ込んでしばらく登城しなかった。

 いかにも宗春らしいではないか。生きとし生けるものの命を慈しむ。一旦請けたと見せて、厳しく返すのは「三ケ条の御咎め」の際と同じだ。

 一方で隼人正の行動は解せない。鷹狩を否定されたぐらいで引き籠るだろうか。

 宗春は、部屋住みの頃の遺恨を込めて厳しく隼人正を叱責したのではないか?

 

◎詰め腹となった直臣

 名古屋の日記魔、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」では萬五郎(宗春の幼名)について触れた箇所は二箇所しかない。通春(当時の宗春の名)が江戸へ発った折に文左衛門が見送った正徳三年四月六日の記事と同年閏五月のものだ。後者を引用する。

「萬五郎様に附下り候朝倉平左衛門。今月二十三日に自害す。吐血頓死と披露す。(中略)平左衛門前役金森数右衛門も、萬五郎様の御供して、市ケ谷の御休息へ入り、帰り吐血頓死」

 朝倉平左衛門は自害したが喀血頓死と発表され、それに先立って金森数右衛門が市ケ谷からの帰りに喀血頓死していた、ということが読み取れる。私は、二人の死に通春は大きく関わっており、朝倉の自害は詰め腹で同役金森の死と関連があると考える。(文左衛門は「前役」金森としているが、その前に「萬五郎様に附下り候朝倉」としているから同役と見るのが適当だろう。)通春の懇願にもかかわらず冷酷に朝倉の詰め腹を主張したのは、当時既に家老だった成瀬隼人正正幸であったのではなかろうか。

 最高権力者の悪行は記録には残りにくいが、「尾藩世紀」が宝永三年七月二十五日の記事で成瀬正輝(正幸)隼人正が身持軽浮で、下屋敷で自ら下手人を斬首したり、願い無く鹿猟をしたりしたことで戒められた、との風説を伝える。

 科人であっても軽々に命を絶ってはならない、と隼人正に自省を迫り、慈悲憐憫の政道を示し、命を弄ぶ鷹狩を否定した。因みに鷹狩で最高の獲物といえば鶴だ。元来鷹は鶴を狙わない。本性を捻じ曲げられた鷹にも憐憫を加え、放せ、と命じたのではないか。

 ひょっとすると長きにわたって許されなかった恋多き後家本寿院の謹慎を解いたのもこの時だったかもしれない。

 

◎永久(とこしえ)の春

 宗春の、そして伝馬町の町衆、現在の養老の町衆のお蔭で今も見ることができる林和靖のからくりは、物語こそ定かではないが、「長閑な春の慈しみの情景」を今に伝えている。いわば時代を越えた3Dアニメシステムだ。「慈しむ心が伝わって結構ではないか」と宗春なら笑うかもしれない。だがそれでは宗春に期待し称揚した町衆の心が伝わらない。宗春本人のからくりを山車に載せるという考えは当時の町衆には畏れ多くてさすがになかったのだ。

 白牛に乗った宗春のからくり人形は、今、大須観音にあるが、もし、当時宗春本人に提案したとしら気安く許されたことだろう。あり得ないことではない。白牛に乗って長煙管に鼈甲笠の殿様が登場する芝居「傾城妻恋桜」の上演を許したくらいだから。だが、それも束の間で第九代藩主宗勝への代替わりで、結局人形は廃棄され今に伝わることはなかっただろう。やはり林和靖に仮託した町衆の選択が大正解だったというわけだ。

 仮託したという証拠をもう一つ。「張州雑志」の林和靖の内着を今一度見て欲しい。隠遁者に不似合いな鮮やかな色。鼈甲笠に長煙管で白牛の背に揺られた殿さまのお召と同じ緋色。往時の町人はそこに宗春の姿を重ね見て慈悲深い殿様に期待しエールを送ったのだ