赤色に込めた心

◎襤褸は着てても心の錦

昨日の朝方、行方不明の二歳児発見の報には、子どもをしっかりと抱いて歩く、赤のねじり鉢巻きのおじさんの後姿があった。夜のニュース。家に上がるよう勧められても「ボランティアで来ていますから」ときっぱり断った救助者。ボランティアの鑑のような振舞いの頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。今日の「ビビット」のインタビューでほころびのあるザックの事を訊かれ、「まだ、新しい。たった38年です。(笑)日本は資源が少ないが、知恵がある」と即応された。かっこいい。物質主義への痛快な一撃。その頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。無償の人助けの心意気はどんな花よりきれいだぜ!

 

◎傾奇者と笑われようと

 顔を見せず籠に乗って移動するのが殿様のステイタスだった。家臣にとっては殿様のお目にかかる「御目見え」が済んでいるかどうかがステイタスだったのに、宗春は惜しみなく民に顔をさらした。しかも、古今東西の殿様がやらなかった姿だ。「遊女濃安都」から引用する。白牛を金四百疋=一両で買った、という記事に続いて、

「諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙(あぶみ)置き候て、猩猩緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通りにて、御衣服、これまた時々替り候へども、つねとても、御頭巾、唐人笠、五尺ばかりの御煙筒御持、奥御茶道衆その先かつぐ」

 参詣の際には白牛に鞍と鐙を付けて、猩猩緋の装束、時々模様は変わるが大方は右のとおり。まとう物もこれまた時々替わるが頭巾、唐人笠、五尺(150㎝)くらいの煙管を御持ちになる。これは先端の雁首を茶坊主が担ぐ。

 頭巾と唐人笠の説明は国入りの部分にある。

「浅黄の御頭巾・鼈甲の丸笠、右笠の縁、二方、巻煎餅のごとく、上へ巻き上がり、唐人笠の如く」

 これは読んだごとく。浅黄と浅葱とは違う。浅葱色の頭巾では鼈甲色と合わない。因みに浅葱裏はダサい田舎侍の別称でもある。

 宗春の姿を今に伝える「傾城妻恋桜」絵入狂言本の絵に着色してみた。元の模様は活かしたが千鳥と波しぶきに赤い空ではさすがに合わないが…。

 長い煙管の意味を考えて管の部分が長いことに着目した。竹の管は羅宇:らう(らお)と呼ばれた。元々ラオス産の品が用いられたのが語源とも言われる。

粋な仁者よ

御三家さまは

白いお牛の背に揺られ

鼈甲笠に緋のお召

尾張長らう(羅宇)長煙管

この歌は筆者の創作。さて、宗春の赤(緋)にはどんな決意があったのだろう。

 

◎家中も染まる

 当主に倣って供回りも派手になっていく。同じく「遊女濃安都」から。

 「所々御成の節、御供廻りの衆中、ならびに御目見の輩、股引・半てん・はばきにて、膝の下、三里灸穴際までこれあり候衣服、両袖下、脊縫下、七八寸ほどわり、火打をひらひらと付、尤、火打紅縮緬、紅どんす(中略)思ひ思ひに出立、その花やかなる事、筆書にも言葉にもいひたらずと也」

 御成りの際、下士も上士も股引・半纏・脚絆でひざ下まで丈がある衣服の両袖下や背縫いの下の部分を二十数センチほど割って赤い裏地を付けて火を打つように目を奪う。紅縮緬、紅緞子など思い思いに仕立て、その華やかなことは筆舌にも尽くしがたい。

 やはり、ここでも赤が目を惹く決め手となっている。

 

◎街中に溢れる赤

 後の江戸の街を描いた「熙代勝覧」では赤は子どもの着物か女帯くらいだ。リクルートスーツのように目立たない色で質素倹約に恭順の意を示していた町人たちは、殿さまや家来衆の赤をどう思っただろう。

 宗春治世の享保元文期の名古屋を描いた図が享元絵巻だ。

 図は七ツ寺あたり。一見して赤い着物が目立つ。名古屋に赤が溢れ、見た目が華やかになり、町人も嬉しそうだ。もう自分を隠す必要はない。派手な着物で目立って良いのだ。

 傾奇者、奇矯だ、と笑われようと白牛の上の紅一点は、規制撤廃の強い意志と共に町人にしっかり受け止められ城下の隅々まで急速に広がったのだった。

eスポーツも温知から?

◎人は新し物好き

Eスポーツがアジア大会のデモンストレーション競技となる。ゲームのやり過ぎはダメ、と言われていたのに選手は一日十数時間没頭するらしい。一昔前はTVばかり見ていてはダメ、一億総白痴化と言われたものだが、今はTV離れという。変われば変わるものだ。蓋し人の興味の的は次々と移っていくのだろう。江戸時代、芝居は風俗を乱すからダメ、と興行が制限されていた。

 

◎執政を遣わし芝居解禁

名古屋には芝居の常打小屋がなく、芝居地や興行期間も制限されていた。尾張家中の芝居見物は享保八年から禁止されていた。それを宗春は緩和どころか一気に規制を撤廃し、若者には、一度は見るように、と薦めさえしたのだった。宗春代の出来事を複数の者が書き足した「遊女濃安都」から書き出す。

「芝居の入口に、刀差・冠物にて見物無用と札打ち置き候所、五月朔日に、御側同心頭成瀬豊前守殿上意を蒙り、芝居芝居の右札、御自身直に指図にて取られ…」

 芝居小屋の前に「刀差しや編笠など被り物の者は見物禁止」と書かれた制札を五月一日に側同心頭の成瀬大膳が上意によって自身が出向いて札を取りさらせた、というのだ。前にも引いた「月堂見聞集」にはさらに詳しい様子が書かれている。

「成瀬大膳は(中略)殿様仰せに、所々宮寺に刀脇差の札外聞悪しき候、取り申すべく候の御事ゆえ、年寄衆へ此儀尋ねなしに、馬に乗り大勢の家来召し連れ、所々宮寺へ札を取りに廻り申され候」

 執政の大膳が宗春の直命を受けて尾張の重職に相談することなく、馬で家来を引き連れて神社や寺の芝居地の札を取って廻った。

 制札の撤去とは何とも分かりやすく迅速な規制撤廃方針の表明ではないか。しかも執政を現地に向かわせたから驚きを以て噂が広がり京までしっかり情報が伝わった。

 

◎大名初のマニフェスト「温知政要」

 宗春は思い付きで芝居を解禁したわけではない。名古屋入りを前にした三月に記したマニフェスト「温知政要」に既にあった。

写真(「温知政要」河村秀根本、名古屋市鶴舞図書館)で見えている序文の二行は

「古より国を治め民を安ん

ずるの道は仁に止ること也とぞ」

 訳すまでもなく仁政を行うことの表明だ。序文の最後にはこれが「誓約の証本」であると明記しているから、法度ではなく自らを戒めるマニフェストと言えよう。見返しに大きく赤く「慈」と記したのは太陽のように家臣、領民を慈しむ決意を込め、最後の「忍」は辛いことは独り月のように耐え忍ぶ決意を込めた、と続くの条に記してある。

 「温知政要」の二十一の条目の要旨は以下のとおり。なお、原本には数字はない。

一、大切にするのは「慈」「忍」の二文字。慈しみで陽の光のように下々まで照らし、辛いことは一人で心の内に耐え忍ぶことを誓う。

 ――心の内の悩みを表に出して近習にあたった兄達を反面教師とした。

二、慈悲は武勇や知謀に勝る。

 ――武勇の信長、知謀の秀吉の後に幕府を開き今日まで代を重ねている家康の慈悲の心の優越を例に説く。

三、政と刑罰について。政は誤ったら改めれば直るが、人への刑罰は取り返しがつかないことがあるからよくよく吟味すること。

 ――試行錯誤も厭わない思い切った施政開始の宣言だ。大罪を犯人一人の所為(せい)とせず、その背景を吟味し政の誤りこそを正していかなければならないという決意の表れだ。

四、初心を忘れない。最初は賢君と称えられたいと努力するが、慣れてくると私欲に溺れてしまう。

 ――秦の始皇帝、唐の玄宗皇帝を例に戒めている。

五、学問の目的は、生まれつきの本心を失くさず心を素直にし、行いを良くすることである。学問を積むことによって邪まな知恵をつけ人を誹り馬鹿にするようになってはならない。

 ――人の上に立つ者は慈悲憐憫が第一の学問であると付言している。

六、適材適所。能力を発揮できない者は、役を申しつける上司の判断に責任がある。才気があり弁舌が巧みでも心がねじけている者は、国の害である。才能がない者でも律義であればそれだけで徳である。

 ――才より心が何より重要であるとする。

七、ひとりひとりの好みを尊重しよう。自分の好き嫌いを他人に強いてはいけない。喜び悲しみに共感する思いやりを持とう。

 ――多様であることに寛容であれ、とする。

八、多い法度は、人から気力をそぎ、心を狭めいじけさせてしまう。瑣末な法令は撤回し止めるべきだ。法度が少なければ背く者が減り心優しくなる。

 ――瑣末な法度を乱発した享保の改革への批判だ。

九、倹約が過ぎてやたらと省略するばかりでは粗悪なものが増えて作り替えねばならず、結果として勿体ないことになる。あらゆるものには価値がある。要不要を厳しく吟味し過ぎると多様性が失われ品質も下がる。作る者への利益となるものならば高くても良いものを永く使おう。

 ――これもまた質素倹約への明らかな反対表明だ。

十、善政への改革でも臣民の協力と盛り上りがなければ成し遂げられない。

 ――理屈だけでは社会は動かず、風潮が重要であることを認識する。独善の君子でなく、傾奇者と嗤われても大向うの評判を取るという決意だ。

十一、自分の勤めるべきことさえ怠らなければ心が苦しむことはない。寒い目にあわなければ暖かさを知ることはない。

 ――子どもを甘やかして育てることに警鐘を鳴らす。

十二、神社仏閣での見世物や茶屋などを許可する。繁盛し人が集まり騒動が起こるからといって免許を停止するのは軽々しいことだ。騒動の原因が侍の方にあれば侍をしっかり処罰する。そうすれば政が信頼され風俗もよくなる。

 ――身分を超えた楽しみの共有を目指す。

十三、万事に関心を持て。他の地域の者と逢ったら風俗・土地・山川のことを訊(たず)ね、そこでとれる物の善し悪しまで興味を持つようにせよ。

 ――産業の振興には情報が重要というわけだ。

十四、すべての芸能や技芸は奥深いものである。自分が未熟であると謙虚であらねば上達は望めない。

 ――芸能者や職人が芸を極めようとする姿勢に対して尊敬の念を持つ。

十五、若者に異見する際は頭ごなしにしてはいけない。自らの若い時のことを思い出し相手の言い分も認めて言い聞かせること。

 ――若者に共感する姿勢が大切という。

十六、どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 ――前項同様、若者の再起を見守る寛容な視線は、過ちを繰り返した自らの半生の肯定でもある。

十七、倹約だからといって人を減らしては万一の備えとならない。火事などの急な折に少ない人数を防火や道具の避難など多方面に分散させては機能せず死傷者が多くなってしまう。どれだけ高価で尊い宝物でも軽輩一人の命には代えられないことを肝に銘じよ。

 ――人件費の抑制が人命を損なうことに繋がってはならない、と人命尊重を高らかに宣する。

十八、下々の者の思いを知らねばならない。実情を身をもって体験しないとどんな慈悲の心も届かない。但し、物の値段までも知るようになっては下々が痛み苦しむようになる。

 ――米の相場操縦に熱心な八木(はちぼく)将軍吉宗を暗に非難している。

十九、国を治める者は人や国に利益のあることでも急に行えば動揺が起き思うようにならないから時間をかけて行うべきだ。但し、人の痛みや難儀に関わることは速やかに改め直さねばならない。

 ――だから皆、長生きしなければならないという。

二十、改め直すことがすべて良いことだとは限らない。諸人の意見に耳を傾けねばならない。

 ――改革への想いが強い自らへの戒めであろう。

二十一、上から下まで私欲を捨て正しい筋道に叶うよういつも考えを巡らせよ。譜代の家臣、代々の藩主に取り立てられた家臣にも平等に憐憫を加えなければならない。

 ――部屋住みの頃、自分への仕打ちに不満を持って恨みを持ったことをあさましい心として反省している。江戸へ来た年に死んだ朝倉や金森への詫び事にも聞こえる。

 

 いかがだろうか?筆者は初めて読んだときに目を疑ったものだ。啓蒙君主しかもリベラルな考えが横溢しているではないか。

 

◎夢を育む政治

 温知政要というタイトルを真正面から論じたものを未だ知らない。政要は政治の要点で間違いなかろう。温、知を使った四字熟語は温故知新が有名だが、それが上記の斬新な考えに相応しいとは思えない。

私は、温をincubateのイメージ、すなわち「そのままを大切にして温める」ことだと考える。すなわち、人々がもっと知りたいと思う気持ちを大切に育むことではないだろうか。知らないことを聞きたい。新しいものを見たい。それを「見てはならん聞いてもならん」と法度で押さえこんでしまっては人は育たない。機会を与えてこそ、その生まれ持った立派な本性が花開く。勉学だけに止まらない。珍しい味。香(かぐわ)しきもの。恋というものもしてみたい。生きる活力の元である種々の欲望、すなわち夢を育むのが宗春の政治の要点だったのだ。かくして宗春の治政を振り返る書は「夢のあと」の名があるのだろう。

宗春は間違いなくロマンチストだ。だが、目先の利益を追う小賢しい昨今の政治が失ってしまった大きなロマンがそこにあったことを知って欲しい。

殺人と謀反の噂

◎宗春、女中殺しの場

 前に宗春は人命最優先と書いたが、少し宗春を齧ったことのある人からは、「本当にそうなの?女中を刺し殺したとか、軍備を整えて大規模な軍事演習をやろうとしたと聞いたことがあるよ」との指摘があるかもしれない。小説や学術的な書物にも史料批判無しに引用されるからこのような間違いが起こる。後世の雑本の記事はネタとしてかくいう筆者も使っているが、宗春の本質に反する事については看過できないので釘を刺して置きたい。

 まず、女中殺しの出典は「趨庭雑話」だ。

「章善公(宗春)へ、何れの諸侯やらん、書簡を参らせしを、公、窃(ひそ)かに読み居たまひし所へ、出頭の御女中、御うしろより流目してすぎければ、御手早く其書簡懐中し給ひしが、其夜、彼女中御伽せられしに、夜深く寝入りたる所を、御枕刀にて刺殺し給ひしとぞ。是を以て、その御志シの程を押しはかるべしと、御物語也」

 宗春が書簡を密かに読んでいたところへある女中が後を流し目して通り過ぎた。宗春は手早く懐に仕舞ったが、その夜、その女中に夜伽をさせた際に寝入ったところを刺し殺した。近習に「我志を押しはかれ」と語った。

 まるで忠臣蔵一力茶屋の場のようだ。遊女お軽が由良助の読む密書を手鏡で覗いて、気付いた由良助に殺されそうになる、という場面にそっくりではないか。「趨庭雑話」は尾張家で語り継がれた噂話を後の世にランダムに集めた書物だ。残念ながらその多くは藩士の夜話で語られた与太話であろう。蟄居謹慎となったのは将軍と覇を争った結果だと強がりたい家臣の気持ちはわかるが、内容の信憑性は乏しいと言わざるを得ない。

 

◎大丸へ具足四万領発注

 平成二十二年の大丸と松坂屋の合併には感慨深いものがあった。京の大文字屋が大丸と名乗ったのは名古屋の出見世が最初だ。当初、その現金、掛値なしの新しい売り方は松坂屋など茶屋町の呉服店との間に軋轢を生じていた。そこへ登場したのが誰あろう尾張家当主となった宗春だった

 『大丸二百五十年史』によれば明治二十一年に発行された「大丸屋騒動実記」に次のような記述があるという。

「彼吉原御全盛の御遊はじめ此度御国入に付、御衣裳のご用は皆大丸屋がご用勤めしとぞ。是にて非常に売徳を得し。尾張宗春卿には、御国入の後小牧山にて御鹿狩の思立にて其旨仰出されければ、(中略)国中の勢子、ご家人など都合四万の人数用意致すべしと仰出されけるが、此度のご用向諸式すべて大丸屋彦右衛門へ仰付られける。因りて大丸屋は手分けをなし、先ず銅(胴)の黒塗に、丸に八の字印しの陣笠、皮具足、小手、すね当、鉄鎖の肌着等四万人前、はっぴ小印、陣羽織、幕等何一つ落なく御用を承はれば、彦右衛門のいそがしき事たとふるに物なく、遂に夫々手順よく、七月下旬までに皆残らずこしらへ上げて納めけり。」

 吉原での遊びや御国入りの際の宗春の衣裳は皆大丸屋が納入し非常に儲かった。御国入りの後、小牧山で鹿狩りを行うとのことで、尾張国中の勢子や家臣の家来の具足四万人分すべてを大丸屋が受注した。手分けして黒塗りの胴、丸八印の陣笠、皮具足、小手、脛当、鎖帷子など四万領や付随する法被、陣羽織、陣幕等残らず受注した彦右衛門の忙しさと言ったらない。それでもついに七月下旬には皆残らず仕上げて納品した。

 地元の呉服屋は面白くなかっただろうが、大丸屋でも下請けは名古屋だったはずだ。なにせ三ヶ月足らずで四万セットを納品しなければならないから、全数を京へ発注していたら連絡や運搬の時間でとても間に合わなかっただろう。

急がせたものの小牧山で大規模な牧狩りが行われた記録はない。そもそも遊びで鹿狩を行うのは、殺生を嫌って鷹狩を止めたことと矛盾する。いずれにせよ、この発注が軍備を整えたという噂の元だと考えられる。だが、発注の中身は具足のみで武器はない。一揃えを一両で見積もれば四万両、時価にして四十億円を市中に還流する財政出動が目的だったのではないか。さらには、既得権益にしがみつく地元の商人でなく、現金掛け値なしの公正な商いスタイルを行う大丸を応援したのかもしれない。

 

◎吉宗と宗春は即レス?

 倹約と規制緩和という正反対の政策や最後に蟄居謹慎となったことから吉宗と宗春が反目して対立していたという観点から語られることが多い。だいたいは宗春が敵役のやんちゃな御三家として描かれる。ところが同時代の随筆「月堂見聞集」によればこの二人は親書を交わしていたというのだ。

「尾州中将宗春卿御家督御相続相済候処、御心入寛仁に御座遊ばされ候、将軍家と御中能(なかよく)、御直筆にて、毎日江戸より名古屋へ、御状箱往来御座候、右御状江戸御年寄衆、名古屋御年寄衆拝見仕(つかまつる)事成り申さず候。」

 中将として書かれているから家督を相続して間もないころ、すなわち享保十六年の初めてのお国入りのことと考えらえる。右筆を介さず、重臣らが見ることのできない状箱に入った手紙が毎日往来したという。毎日書いたというのではなく、返信をすぐに書いて毎日飛脚が東海道を走っていた、ということだろう。この頃の二人の仲は決して悪くはなかった、と見てよいのではないか。

宝泉院遺品 松橘蒔絵長文箱(徳川美術館「徳川宗春」図録より)

 

◎磨りガラスの遠眼鏡

 「月堂見聞集」には、この他にも興味深い記事がある。著者の本島知辰は京にあってなぜ知り得たか?情報入手の手段は記事の末に書き添えてある。

「右の書付、尾張御家中より申来候由」

 他の記事も知辰は、私見を加えず、見知ったことを淡々と書いている。浅学ゆえその背景はよく知らないが、尾張家中に血縁者か俳句仲間がいたのだろう。いずれにせよ、「月堂見聞集」は公開を目的としない同時代の随筆であり史料的価値は極めて高いといえよう。

 一方、先述の「趨庭雑話」にある女中殺しの話は、信憑性を欠き、多くの憶測を生んだ。宗春の輪郭をぼかす磨りガラスでしかない。これでは歴史望遠鏡のレンズにはならないばかりか、宗春の人となりの究明にとって妨げでしかない。

犠牲は御無用

◎千金の宝物も人命には替えらえない

宗春の著したマニフェスト「温知政要」で火事への備えについて書かれた条がある。

 火災の際にすぐに集まることができる人数が意外に少ないことを念頭にして、

「多からぬ人数を方々へわけて、火も防がせ、道具の支配も致させ、いろいろのことに使ひては、いずれの方の間も合わず、死傷の者多くできるよりほかあるまじ。たとひ千金をのべたる物にても、かろき人間一人の命にはかへがたし、これらの類、皆々上たる者の勘弁なく不裁許より起る事なり。」

 少ない人数の者らに、やれ延焼を防げ、やれ伝来の道具を守れ、などと色々なことを命じてはそれぞれ中途半端となり死傷者が多く出てしまうであろう。貴重な道具であっても軽輩一人の命に替えることはできない。こんなこと(道具を守るために命を賭すこと)は上に立つ者に弁えが無く判断を示さないところから起こるのである。

 上に立つ者、すなわち宗春自身への戒めと読める。人命優先は今でこそ当然のことだが、敢えて書かれているということは、当時は当たり前ではなかったからだ。

 

◎「腹蔵」の美談

 先年上演された「染模様恩愛御書」は、いわゆる血達磨物といわれる歌舞伎演目だ。血達磨と聞くとプロレスの流血のように血まみれになる状態を思い浮かべるが、話の基になったのは肥後細川家に伝わる血染めの達磨の軸の由来譚だ。細川綱利に恩義のある大川友右衛門が江戸藩邸の火災の折,家宝の達磨の掛軸の焼失を防ぐため切腹して腹中に収めて守ったという。史実としてはかなり怪しい。腹に入る掛け軸は相当小さいだろうし、そもそも血まみれになっては守ることになるのだろうか。だが、ここでは史実であるかどうかは当面重視しない。命を賭して伝家の宝物を守ることが忠義である、と当時一般に考えられていたかどうかが肝心だ。血達磨物は、正徳二年、京都布袋屋座で「加州桜谷血達磨」として上演されたのがその始まりとされる。すなわち宗春が温知政要を著した時にはすでに細川の血達磨の話は人口に膾炙していたと考えられる。

 この共通認識に立って、宗春は、蔵番のような軽輩であったとしても宝を守るために命を捨てさせてはならない。美談として称賛するから命を落とすものが後を絶たないのだ。軽々に命を捨てるは忠義にあらず、というのだ。

 

◎犠牲は美しく見える

 私たちは不用意に災害による死没者の事を犠牲者というが、犠牲という言葉には元来、何かの目的のため、という前提がある。共同体の望みを叶えるために動物の生贄や人身御供がなされた。捨身飼虎、贖罪、と宗教に取り入れられて犠牲は崇高な文化となってしまった。「銀河鉄道の夜」「幸福な王子」…自己犠牲は退廃的で甘美ですらある。容易に人の心を惹くから、滅私奉公、御国のために桜のように散れと戦意発揚に利用された。

 決して昔の事というわけではない。犠牲バントは原語からの和訳とはいえ、犠打で一死、と続くと犠牲と死の結びつきは強固となる。命がけで頑張ります!体を張って頑張った。……犠牲を顕彰する伝統は今なお私たちの中に根強く残っていると気付く。犠牲心溢れる人を褒め讃えるのは、村のためにマンモスと闘って亡くなった者を讃えた原始の血が騒ぐのだろうか?あるいは隣の部族と闘って戦死した勇者を神に祀り上げて若い戦士を鼓舞するためなのか?

 国家主義が性懲りもなく勢力を増してきた昨今。「主君のため」「御家のため」に犠牲になるな、命をささげる必要はないという宗春のメッセージは今も新鮮だ。

 今後は、戦争の犠牲者といわず、単に戦没者、被害者と認識すべきだろう。 

◎席次のどん尻

 宗春治政から半世紀以上後の享和年中の成立とされる「尾州家官制」は、藩中の席次を示したものなのだが、役名だけではない。成瀬、竹腰の両御附家老から始まり

六百に近い役と門閥家名が入り交じり序列が定められている。

 蔵を管理する御蔵方は最後に、しかも字下げされて記されている。宗春は、この家臣中序列最下位の「かろき人間」の命をも尊重したのだった。のみならず、門閥でない家臣をも積極的に登用した。家臣だけではない。領民を同じ人として見た殿様だった。…その証左はまた後日。

鳥と宗春

◎高田祭り

 平成三十年五月二十日、養老町の高田祭りに行った。宗春と縁のある(やま:車篇に山)の本楽が行われるのだ。すでに巡行は始まっていたが、程なく目当てのに追いついた。道の両側にはすでに屋台が軒を連ねて仕込みにかかっており、が差し掛かると長い庇をひょいと跳ね上げる。怒号が飛び交う殺気立った雰囲気ではなく、綱持つ引手、楫(かじ)棒に体を預ける楫取り、羽織の町衆も余裕をもって毎年繰り返される祭りの光景を楽しんでいるように見受けられた。

 現在、高田祭りで巡行する三輌のは岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている。お目当ての林和靖は全国で高田祭りだけに残るからくり人形で、宗春の人となりを知る上で特に重要だと私は見ている。

 午後になってからくりの本楽が奉納された。菜の花を啄(ついば)む鶴を唐子が叱って追い払うが林和靖が宥(なだ)る。鶴が羽を広げ唐子が正面を向き林和靖が軍配を挙げて大団円となる、といった物語になっている。微笑ましい春の風景だ。

 

◎東照宮祭 林和靖車

 高田祭りの人形の来歴は定かではないが、林和靖がからくり人形として本邦初登場となったのは享保十八年四月のことだった。宗春二度目の国入りに当たるこの年の東照宮祭は、「遊女濃安都」によれば家臣の騎馬隊に続き星野織部が宗春の名代として加わり三四町も行列が続く賑やかさだったという。これに合わせて伝馬町の車が新調されたのだ。

 内藤東甫の「張州雑志」の口絵を見ると林和靖、唐子、丹頂鶴、花をつけた梅の木と高田のと同様の構成だ。高田の方は林和靖の上着に亀甲を用い、伝馬町は横幕にそれを用いて亀を表わし、鶴との目出度い取り合わせとしている。ただ、伝馬町の籠にあるのは高田のような菜の花ではないようだ。確かに菜の花は梅の花とは少し季節がずれる。

 名古屋まつりのわらべうたに「猩々酒飲む、鶴は芹」とあるが、絵には何種類かの植物が描かれているようだ。芹といえば七草の一つ……この籠盛りは春の七草ではなかろうか!

 

◎林和靖

 林和靖は北宋の隠遁詩人で妻帯せず梅と鶴を愛して一生を過ごしたという。貞享三年には日本でも「和靖先生詩集」が茨木多左衞門によって刊行されており、宗春の時代にもよく知られていたらしい。

 七草は日本の風習ではないかと調べてみたら、中国には「七種菜羹(しちしゅさいこう)」という七種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べて無病を祈る習慣があったそうだ。これを一月七日(人日:人を殺さない日)に行ったという。

 

 私は伝馬町の町衆が慈しみの政治を目指す宗春を賞揚し、林和靖の姿に仮託したのだと考える。

 

◎殺生は無用

 享保代に京の本島知辰が綴った「月堂見聞集」に次のような記事がある。

「御前御機嫌の節見合せ、成瀬隼人正、御国の御政道古来よりの咄(はなし)畢(おわり)て、御慰(おなぐさみ)に鷹狩に御出(おいで)しかるべしと申し上げられ候へば、御請け遊ばされ、後日御出の朝、御城へ隼人正を召され、殺生は無用、それより諸士共に武芸を嗜み申すべき由仰せ出でられ、隼人正は私宅へ帰り、数々の名鷹を放し、在所犬山へ引越し、久々出城仕らず候」

 御附家老成瀬隼人正が新藩主に御政道の伝統を滔々と語り聞かせて、御機嫌取りに鷹狩に誘うと宗春は受けた。そして鷹狩の朝、隼人正は狩り装束で登城しただろう。ところが宗春は「殺生はならぬ」と鷹狩を拒否した。隼人正は自分の飼っていた鷹をすべて放鳥し、領地の犬山に引っ込んでしばらく登城しなかった。

 いかにも宗春らしいではないか。生きとし生けるものの命を慈しむ。一旦請けたと見せて、厳しく返すのは「三ケ条の御咎め」の際と同じだ。

 一方で隼人正の行動は解せない。鷹狩を否定されたぐらいで引き籠るだろうか。

 宗春は、部屋住みの頃の遺恨を込めて厳しく隼人正を叱責したのではないか?

 

◎詰め腹となった直臣

 名古屋の日記魔、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」では萬五郎(宗春の幼名)について触れた箇所は二箇所しかない。通春(当時の宗春の名)が江戸へ発った折に文左衛門が見送った正徳三年四月六日の記事と同年閏五月のものだ。後者を引用する。

「萬五郎様に附下り候朝倉平左衛門。今月二十三日に自害す。吐血頓死と披露す。(中略)平左衛門前役金森数右衛門も、萬五郎様の御供して、市ケ谷の御休息へ入り、帰り吐血頓死」

 朝倉平左衛門は自害したが喀血頓死と発表され、それに先立って金森数右衛門が市ケ谷からの帰りに喀血頓死していた、ということが読み取れる。私は、二人の死に通春は大きく関わっており、朝倉の自害は詰め腹で同役金森の死と関連があると考える。(文左衛門は「前役」金森としているが、その前に「萬五郎様に附下り候朝倉」としているから同役と見るのが適当だろう。)通春の懇願にもかかわらず冷酷に朝倉の詰め腹を主張したのは、当時既に家老だった成瀬隼人正正幸であったのではなかろうか。

 最高権力者の悪行は記録には残りにくいが、「尾藩世紀」が宝永三年七月二十五日の記事で成瀬正輝(正幸)隼人正が身持軽浮で、下屋敷で自ら下手人を斬首したり、願い無く鹿猟をしたりしたことで戒められた、との風説を伝える。

 科人であっても軽々に命を絶ってはならない、と隼人正に自省を迫り、慈悲憐憫の政道を示し、命を弄ぶ鷹狩を否定した。因みに鷹狩で最高の獲物といえば鶴だ。元来鷹は鶴を狙わない。本性を捻じ曲げられた鷹にも憐憫を加え、放せ、と命じたのではないか。

 ひょっとすると長きにわたって許されなかった恋多き後家本寿院の謹慎を解いたのもこの時だったかもしれない。

 

◎永久(とこしえ)の春

 宗春の、そして伝馬町の町衆、現在の養老の町衆のお蔭で今も見ることができる林和靖のからくりは、物語こそ定かではないが、「長閑な春の慈しみの情景」を今に伝えている。いわば時代を越えた3Dアニメシステムだ。「慈しむ心が伝わって結構ではないか」と宗春なら笑うかもしれない。だがそれでは宗春に期待し称揚した町衆の心が伝わらない。宗春本人のからくりを山車に載せるという考えは当時の町衆には畏れ多くてさすがになかったのだ。

 白牛に乗った宗春のからくり人形は、今、大須観音にあるが、もし、当時宗春本人に提案したとしら気安く許されたことだろう。あり得ないことではない。白牛に乗って長煙管に鼈甲笠の殿様が登場する芝居「傾城妻恋桜」の上演を許したくらいだから。だが、それも束の間で第九代藩主宗勝への代替わりで、結局人形は廃棄され今に伝わることはなかっただろう。やはり林和靖に仮託した町衆の選択が大正解だったというわけだ。

 仮託したという証拠をもう一つ。「張州雑志」の林和靖の内着を今一度見て欲しい。隠遁者に不似合いな鮮やかな色。鼈甲笠に長煙管で白牛の背に揺られた殿さまのお召と同じ緋色。往時の町人はそこに宗春の姿を重ね見て慈悲深い殿様に期待しエールを送ったのだ