殺人と謀反の噂

◎宗春、女中殺しの場

 前に宗春は人命最優先と書いたが、少し宗春を齧ったことのある人からは、「本当にそうなの?女中を刺し殺したとか、軍備を整えて大規模な軍事演習をやろうとしたと聞いたことがあるよ」との指摘があるかもしれない。小説や学術的な書物にも史料批判無しに引用されるからこのような間違いが起こる。後世の雑本の記事はネタとしてかくいう筆者も使っているが、宗春の本質に反する事については看過できないので釘を刺して置きたい。

 まず、女中殺しの出典は「趨庭雑話」だ。

「章善公(宗春)へ、何れの諸侯やらん、書簡を参らせしを、公、窃(ひそ)かに読み居たまひし所へ、出頭の御女中、御うしろより流目してすぎければ、御手早く其書簡懐中し給ひしが、其夜、彼女中御伽せられしに、夜深く寝入りたる所を、御枕刀にて刺殺し給ひしとぞ。是を以て、その御志シの程を押しはかるべしと、御物語也」

 宗春が書簡を密かに読んでいたところへある女中が後を流し目して通り過ぎた。宗春は手早く懐に仕舞ったが、その夜、その女中に夜伽をさせた際に寝入ったところを刺し殺した。近習に「我志を押しはかれ」と語った。

 まるで忠臣蔵一力茶屋の場のようだ。遊女お軽が由良助の読む密書を手鏡で覗いて、気付いた由良助に殺されそうになる、という場面にそっくりではないか。「趨庭雑話」は尾張家で語り継がれた噂話を後の世にランダムに集めた書物だ。残念ながらその多くは藩士の夜話で語られた与太話であろう。蟄居謹慎となったのは将軍と覇を争った結果だと強がりたい家臣の気持ちはわかるが、内容の信憑性は乏しいと言わざるを得ない。

 

◎大丸へ具足四万領発注

 平成二十二年の大丸と松坂屋の合併には感慨深いものがあった。京の大文字屋が大丸と名乗ったのは名古屋の出見世が最初だ。当初、その現金、掛値なしの新しい売り方は松坂屋など茶屋町の呉服店との間に軋轢を生じていた。そこへ登場したのが誰あろう尾張家当主となった宗春だった

 『大丸二百五十年史』によれば明治二十一年に発行された「大丸屋騒動実記」に次のような記述があるという。

「彼吉原御全盛の御遊はじめ此度御国入に付、御衣裳のご用は皆大丸屋がご用勤めしとぞ。是にて非常に売徳を得し。尾張宗春卿には、御国入の後小牧山にて御鹿狩の思立にて其旨仰出されければ、(中略)国中の勢子、ご家人など都合四万の人数用意致すべしと仰出されけるが、此度のご用向諸式すべて大丸屋彦右衛門へ仰付られける。因りて大丸屋は手分けをなし、先ず銅(胴)の黒塗に、丸に八の字印しの陣笠、皮具足、小手、すね当、鉄鎖の肌着等四万人前、はっぴ小印、陣羽織、幕等何一つ落なく御用を承はれば、彦右衛門のいそがしき事たとふるに物なく、遂に夫々手順よく、七月下旬までに皆残らずこしらへ上げて納めけり。」

 吉原での遊びや御国入りの際の宗春の衣裳は皆大丸屋が納入し非常に儲かった。御国入りの後、小牧山で鹿狩りを行うとのことで、尾張国中の勢子や家臣の家来の具足四万人分すべてを大丸屋が受注した。手分けして黒塗りの胴、丸八印の陣笠、皮具足、小手、脛当、鎖帷子など四万領や付随する法被、陣羽織、陣幕等残らず受注した彦右衛門の忙しさと言ったらない。それでもついに七月下旬には皆残らず仕上げて納品した。

 地元の呉服屋は面白くなかっただろうが、大丸屋でも下請けは名古屋だったはずだ。なにせ三ヶ月足らずで四万セットを納品しなければならないから、全数を京へ発注していたら連絡や運搬の時間でとても間に合わなかっただろう。

急がせたものの小牧山で大規模な牧狩りが行われた記録はない。そもそも遊びで鹿狩を行うのは、殺生を嫌って鷹狩を止めたことと矛盾する。いずれにせよ、この発注が軍備を整えたという噂の元だと考えられる。だが、発注の中身は具足のみで武器はない。一揃えを一両で見積もれば四万両、時価にして四十億円を市中に還流する財政出動が目的だったのではないか。さらには、既得権益にしがみつく地元の商人でなく、現金掛け値なしの公正な商いスタイルを行う大丸を応援したのかもしれない。

 

◎吉宗と宗春は即レス?

 倹約と規制緩和という正反対の政策や最後に蟄居謹慎となったことから吉宗と宗春が反目して対立していたという観点から語られることが多い。だいたいは宗春が敵役のやんちゃな御三家として描かれる。ところが同時代の随筆「月堂見聞集」によればこの二人は親書を交わしていたというのだ。

「尾州中将宗春卿御家督御相続相済候処、御心入寛仁に御座遊ばされ候、将軍家と御中能(なかよく)、御直筆にて、毎日江戸より名古屋へ、御状箱往来御座候、右御状江戸御年寄衆、名古屋御年寄衆拝見仕(つかまつる)事成り申さず候。」

 中将として書かれているから家督を相続して間もないころ、すなわち享保十六年の初めてのお国入りのことと考えらえる。右筆を介さず、重臣らが見ることのできない状箱に入った手紙が毎日往来したという。毎日書いたというのではなく、返信をすぐに書いて毎日飛脚が東海道を走っていた、ということだろう。この頃の二人の仲は決して悪くはなかった、と見てよいのではないか。

宝泉院遺品 松橘蒔絵長文箱(徳川美術館「徳川宗春」図録より)

 

◎磨りガラスの遠眼鏡

 「月堂見聞集」には、この他にも興味深い記事がある。著者の本島知辰は京にあってなぜ知り得たか?情報入手の手段は記事の末に書き添えてある。

「右の書付、尾張御家中より申来候由」

 他の記事も知辰は、私見を加えず、見知ったことを淡々と書いている。浅学ゆえその背景はよく知らないが、尾張家中に血縁者か俳句仲間がいたのだろう。いずれにせよ、「月堂見聞集」は公開を目的としない同時代の随筆であり史料的価値は極めて高いといえよう。

 一方、先述の「趨庭雑話」にある女中殺しの話は、信憑性を欠き、多くの憶測を生んだ。宗春の輪郭をぼかす磨りガラスでしかない。これでは歴史望遠鏡のレンズにはならないばかりか、宗春の人となりの究明にとって妨げでしかない。

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