敢えて正室として迎えず 謎の美女阿薫

◎部屋住みは辛いよ

 尾張藩主の弟たちが最初に迎える妻は側室と相場は決まっている。なぜなら当主に万一のことがあれば御三家当主に相応しい正室を迎えなければならないからだ。宗春の兄の継友は藩主となってから摂家の近衛家の姫を迎えた。吉宗も紀州藩主となってから伏見宮の女王を正室に迎えている。紀州家は二代藩主光貞の正室も同じく伏見宮の女王だ。一方、尾張家三代の吉通の正室は摂家の九条家だった。御三家の序列では尾張が上なのに、正室の出自は逆転しているのだ。

 

◎女王の格上を娶る

 皇女しかない、と宗春は考えただろう。筆者は、享保十六年に適齢の皇女を探してみた。中御門天皇の第一皇女は、まだ十一歳。先代の東山天皇には存命の皇女なし。さらに一代遡ると仙洞御所の霊元上皇。するとただ一人独身の皇女が見つかった。しかも十八歳。二歳で婚約したが、翌年、相手の死去で破談になった――幼将軍家継の婚約者八十宮だ。親王宣下があって吉子内親王となっていた。宗春は尾張相続の前から意識していたのではなかろうか。娘の名は八百姫、八千姫という。

 

◎吉子は兄嫁の叔母

 宗春の兄の吉通の正室の瑞祥院(輔姫)は九条家から輿入れした。その母益子内親王は後西天皇の第十皇女で霊元天皇の猶子となって九条家に嫁いだ。吉子と姉妹ということになる。つまり、兄嫁である瑞祥院にとって吉子は叔母に当たる。九条家には吉通の娘の千が嫁いでいる。一度は徳川と縁づいた皇女でもあり十分に話を進められる素地はある。だが、歴史上、吉子内親王は享保十七年に出家するのだから、当初は悲恋として描こうと考えていた。宗春の側室を調べていた際、とあるウェブサイトで気付く前は……。

 

◎享保十七年十月の符合

 「尾張藩の殿さま列伝」作家の藤澤茂弘さんのサイトで宗春の側室阿薫(おくん)の和歌集があることを知った。阿薫が特別な側室だったことが分かり想像が膨らんでいった。今こうしてブログとしてウェブサイトに残しているのは、市井の研究者への還元のためだ。

 本人の死後に冷泉宗家、為村、為泰といった歌の上手の添削による四千二百首が編まれた「阿薫和歌集」は、鶴舞図書館河村文庫と蓬左文庫にある。

 河村文庫本の伊藤将親の後記。

宝泉院阿薫芳負禅定尼諱は華子和泉と称す猪

甘氏にして其先近江の人成りはじめ織田家につかへのち

豊臣の家臣と成り両家滅亡の後都に出て代々処士たり

父を宗貞といふ母は鈴木氏正徳五年乙未三月十六日に父

の家に生れ給ふ享保十七年壬子十月

章善院殿の殿内に入給ふ

尼公容儀すぐれて婦徳をおさめ小星の光おはす

公御国務の時より位遁れ給ふ後まで左右に侍りて

采蘩の助けまします

戴公殊に其労を賞し意を給ひ品秩およそ夫人の

礼に准じさせ給ふ

今の殿に成りても厚遇亦同じ

 

 阿薫の諱は華子、和泉。家は猪甘(いかい)氏、近江の出で織豊の家臣だったが後は都で代々浪人だった。父は宗貞、母は鈴木氏の出。正徳五年に生れ、享保十七年十月に宗春の側室となった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から隠居の後まで側にあり夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞でて正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇している。

 隠居後も側室の中でただ一人連れ添った特別な側室であったことを語っている。

 さらに注目すべきは奥に入った年月――享保十七年十月。これはまさに吉子が出家したとされる年月と符合するのだ。因みに吉子の生まれは正徳四年八月二十二日で阿薫は一つ下となる。

 

◎せめて御殿ぐらいは用意したい

 御三家に相応しい正室を迎えた!と天下に公言するわけにはいかない。大らかな万葉の頃「安見児得たり」と手放しで嫁取りを喜んだ鎌足とは状況が違う。正室とすれば出自を問われる。宗春は名を捨てて実をとったのだ。自ら希求していた体面を保つための、あるいは家格を上昇させるための婚姻を深く省みただろう。以降、宗春は正室を迎えようとはしなかった。

宗春の失政に数えられる一つに乾御殿がある。乾というから城から北西にあるのかと考えたが、適当な御殿地はなかった。おそらく場所は円頓寺の北、尾張の支藩高須家の屋敷地と考えられる。高須家は江戸住まいで領地である美濃高須に来ることがなく、名古屋に来ることもなかったから館はなかったものと思う。二之丸御殿や広大な下屋敷があるのに、なぜさらに御殿が必要だったのか?――位の高い女性を迎えるのに新御殿を建てるのは当時の常識だ。批判的な家臣は高須家を相続した義淳(後の宗勝)に注進したことだろう。理由を明らかにできない宗春の胸の内はいかばかりだったかと思い遣られる。

 果たしてこれを知っていた家臣はいなかったのだろうか?

 

◎儒者の暗号

 実際に縁組に動いたのは家臣だったはずだから知る者はいたはずだ。知っていて、伝えたいのだが、あからさまに伝えることができないとき、人はどのようにメッセージを残すのだろう。

 実はこの項を書き始めて改めて阿薫和歌集の序文を見ていた時にそれを見つけた。序文の作者は岡田挺之。またの名を新川、仙太郎という儒者で藩校明倫堂の教授を勤めた。

 同書のマイクロフィルムからの複写で状態が悪く、特に下の部分は所蔵印と重なって判読しづらいのでトリミングした。後記と同時にカラー写真で撮影させてもらえばよかったと後悔している。

 一行が十九文字に揃えて書いてある。岡田挺之の版行されたものは漢文でも一行の文字数が揃っていないものがある。とくに文末を示す「也」は、前行の字数が多くなっても行末に押し込めている。また、漢文で序文に残すのは作者の出自や業績など――ちょうど前述の後記のような内容が常套と思うのだが、この序文は雰囲気が異なる。和歌三神に数えられる衣通姫(そとおりひめ)と六歌仙の小野小町とを挙げ女流歌人から書き出している。出自は後記よりあっさりと猪飼氏、諱は華子とある。

 七文字ずつ区切って末を読むと「咎無くて死す」と読めるいろは歌や伊勢物語のかきつばたの折句は有名だが、漢詩にも折句のようなものがあり蔵頭詩といい、頭文字を拾うと意味があるという。この序文は漢詩ではないが、大切なメッセージが隠されている。

 読者はもうお判りだろうか?頭文字で「仙洞也」と読める。仙洞御所――吉子が生まれた御所であり、仙洞様は永らく吉子の父霊元院を表していた。六歌仙と書かず「六仙」としたり、艶めかしさが漂う「洞房窈窕」を敢えて使ったりして頭文字を無理矢理合わせた感を筆者は抱くのだが、漢文や岡田新川の研究者による分析を待ちたい。

(追記)

 蓬左文庫の蟹江本を確認したところ、同じく仙洞也と読めた。異なる点もあった。

1.題が「阿薫和歌集」となっている。

2.宗春の死去を「公薨」でなく「公捐館舎」としている。

3.「冷泉家」で平出を用いている。(敬って改行している)

4.録而蔵于家の助字「于」がない。

 天明五年は謹慎が解かれる前だったから薨去の字を使うのが公式には憚られたものと思われる。よって蟹江本は公式に献呈されたものと考えられる。蟹江本は原本でありそれを写した宗春恩顧の者が書き写した際に「薨」と直したのだろう。

 

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