宗春を追い落とした家臣たち

◎不都合な真実は幕府の日記にあった

 PKO活動で当該エリアでの戦闘の有無が国会で議論された際、自衛隊の日記を破棄したという耳を疑う言葉があった。結局はデータとして残っていたわけだが、国が行っている活動の記録がPKOやりました、だけで済むわけはない。現場の記録を軽視している。事件は現場で起こっているのだ。

 後に残って都合の悪いものを破棄するのは、犯罪者のみならず、時々の権力者の常だ。だから後の世に意図的に残された史料には疑いの目を向けること(史料批判)は研究者の常道だ。歴史捜査というテレビ番組があるが、証拠の確度を見極めつつ推理する過程を鑑みれば、なるほど歴史研究は犯罪捜査に似ている。

 徳川幕府の正史である「徳川実紀」になく、尾張の正史にも残っていないが、徳川実紀が参考にしたとされる幕府の日記「柳営日次記」に興味深い記事があった。宗春が蟄居となった元文四年正月、尾張家を相続した徳川但馬守(宗勝)が家臣を引き連れて二十八日に御礼の登城をした記録だ。

 (国会図書館デジタルコレクションより)

 前主君が謹慎となって十五日後に新しい主君と共に御礼に登城した家老竹腰志摩守以下十一名の尾張家臣が記されている。

 家中の首謀者が家老の竹腰正武であったことは、正武の事績を称揚する「尾張大夫義忠府君行状」に記され、ここでも成瀬隼人正を押さえて筆頭となっていることからもほぼ間違いのないことだろう。その首謀者に引き連れられて時期将軍に御目見えしたのだから宗春を追い落とした者たちと言えよう。ここには年寄だった星野織部や成瀬大膳の名はない。

 この中で筆者が小説「宗春躍如」で取り上げたのは用人(柳営日次記では供番頭)の横井孫右衛門、星野八左衛門、遠山大膳の三名だ。以下に遡及的に関係性を洗い出してみる。

 

◎明暗を分けた小姓トリオ

 享保十七年二月十三日、同時に小姓として召出された遠山百太郎(大膳)、千賀茂兵衛、小笠原斎宮の三名。歳の近かったであろう彼らのその後は三者三様だった。

 斎宮は、先のブログで書いた小山主膳事件に連座して享保二十年に致仕。

 宗春隠居時も小姓のままだった茂兵衛は宗春に付き添い、その十四年後の宝暦三年に小納戸として再度召し抱えられた。

 元文二年に小姓から用人に転じた遠山大膳は、宗春蟄居後も昇進を続け、宝暦十一年、年寄、その後従五位下伊豆守の士大夫にまで昇り詰めた。結果としてただ一人、上手く主君を乗り換えたわけだ。

 

◎孫右衛門は俳人横井也有(やゆう)

(栗原信充/画、国会図書館デジタルコレクションより)

 日付は横井孫右衛門也有の没した日だ。「ひるがほやとちらの露もまにあわす」すなわち、昼顔は朝露も夜露も受けることができず間の悪いものだ、と間の悪さを茶化している。実は露に濡れて品を作る朝顔や夕顔でなく、真っ当にお天道様の下に咲く昼顔に共感を持っているのではなかろうか。

 のちの時代に描かれたこの肖像画や「鶉衣」などの軽妙洒脱な俳文からは、滑稽な好々爺の雰囲気が漂うが、後に大番頭、寺社奉行まで勤めた有能な藩士名門横井藤瀬家の惣領だ。

 「稿本藩士名寄」の同年の記事は

元文四年未四月十一日 御帰国ニ付御供ニ而登城於御黒書院公方様大納言様江御目見巻物二拝領

これ以前の正月二十八日の御目見えを隠蔽している。宗春蟄居と同月に江戸城に登城し大納言家重に御目見えしたことを記録に残すのは憚られたわけだ。やはり、宗春追い落としの功労者と見られたくなかったからだろう。

 

◎星野八左衛門は織部の実兄

 この御目見えの事実を包み隠さず堂々と自らの経歴として藩に提出した者が一人だけいた。星野八左衛門――宗春の寵臣織部の実兄だ。八左衛門は逆に宗春追い落としの功労者と見られたかったのだろう。

元文四年未正月廿八日 御相續御礼御登城之節 御供ニテ御城江罷出太刀銀馬代紗綾弐巻献上奉拝 将軍吉宗公 亜相家重公

 吉宗も居たとする部分以外は紗綾の巻数まで一致する。

 八左衛門はこれ以前に、ある使命を与えられた。上記と同じく「稿本藩士名寄」から引用する。

元文二巳九月十五日 此度民部様御産之為御用事江戸表江被差遣候間 御附人をも兼勤候様ニ可相心得旨於御前御直被仰付

 出産が近づいた宗春の側室の民部の付け人となれ、と直接宗春から命じられた。

 嫡子を亡くした宗春は、跡継ぎの無事の誕生を願って織部の兄という血縁を信頼したのだろう。ただし、諸大名からの嘉儀の使者を取り仕切る実務となると八左衛門では頼りないと宗春は考えたようで、すぐさま別の用人を添えたことが次の史料に見える。

 以下は、「稿本藩士名寄」の横井孫右衛門の項。

元文二巳十月三日 此度御出産之節 蟇目矢取之役相勤候様ニと被仰付

 同日 今度民部様御出産之節当御代初而之御儀 其上殿様御留守方之儀にも候 先達而星野八左衛門儀 右御用并御附人相兼相勤候様にと被仰付被遣事候間 何も一統ニ申合諸事御大切ニ御模通宜相勤候様被仰出

 蟇目矢取とは出産の際に魔除けに放たれる鏑矢を取る役目だ。それだけでなく八左衛門に協力するよう命じている。

 さらに、年寄に引き上げた横井豊後をも江戸へ向かわせた。彼らは全て宗春が信頼した者たちだと考えられる。

 ここまで念を入れるということは、逆から見れば江戸詰の家老竹腰正武を疑っていたことをうかがわせる。奇異な振舞いで幕府と対立する宗春の隠居を望む声が宗春にも聞こえてきたのだろう。家臣の間での対立が深まっていたようだ。

 

◎加藤清四郎へのお咎め

 八左衛門に命が下ったよりさらに九日前、加藤清四郎、喜四郎兄弟が蟄居となった。今まで誰も指摘していないがこのお咎めには継嗣をめぐる藩内の軋轢を静める意味があったと推測する。

 「士林泝洄」から蟄居前後の記事と共に引用する。

加藤清四郎

享保十六年亥五月廿二日 附属于國丸主為御書院番頭

元文二年巳九月六日 有故公収食邑賜俸七十六石蟄居

 四年未九月廿一日 返賜食邑八百石為寄合

 

加藤喜四郎

享保五年子八月廿五日 被召出新御番賜俸

元文二年巳九月六日 有故公収俸蟄居

四未九月廿一日 為御馬廻賜俸

 

 蟄居は「故あって」と理由は明示していない。当時の状況から考えてみる。

 清四郎は宗春の嫡男国丸の書院番頭だったが国丸は夭逝してしまった。その傅役として責任をとらず、知行の返上を申しでることもなく今日までのうのうと禄を食んでいる。来る九月九日は国丸の三回忌だ。そして民部の出産が近い。罰を与えて生まれる子の傅役の戒めとしなければならない、と宗春の寛容な施政方針への批判の高まりが宗春側近からもあったのだろう。宗春は側近の意見を無視もできず遅ればせながら加藤兄弟を咎めたのだろう。食い扶持の七十六石を与えたのは宗春からの慰謝料だと推測できよう。兄弟とも宗春が蟄居となった元文四年に揃って許されていることからも宗春側近が望んだ処罰だったのだろう。

 この御咎めの後の出産立合いの命である。跡継ぎの無事な出生と扶育がなされなければ禄を減らされることが示され、江戸へ派遣された者たちの重圧は高まったことだろう。

 側近たちの期待の中、十一月、男児が無事誕生し龍治代と名付けられた。待望の宗春の世継ぎだったがその年のうちに夭逝してしまった。

 派遣された者たちは御三家の嫡男誕生を祝う使者に溢れる市ケ谷邸で昂揚感を味わい、翌月に数多の弔問の使者に応対して多忙な年の瀬となったことだろう。

 

◎使者の結束

 彼らは国元には帰らなかった。命には側室民部の付け人として御用を勤めよとあるから三月の宗春の参府までは留まらなくてはならない。苦難に直面し使者の結束が高まった。若き年寄の横井豊後と同門の孫右衛門、孫右衛門と星野八左衛門、さらに彼らを束ねたのは家老竹腰正武だったと筆者は推測する。正武は江戸詰となって丸二年経ち、将軍や幕閣との繋がりに自信を深めていたことだろう。「主君に失政あれば押込もやむなし」との言質を取っていたものと思われる。押込とは主君を幽閉して政治権力を剥奪するクーデターのことだ。

 それは、早くも五月末日に実行された。「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏が指摘するように「徳川実紀」での宗春の記載は五月二十六日が最後で九月十日まで見られない。江戸藩邸で宗春が幽閉されたのだ。実力行使の際、寵臣織部を抑えたのは兄八左衛門であっただろうか。名古屋では六月九日、宗春の参府と入れ替わりで帰国していた横井豊後から旧制に復するよう触れが回ったことは「遊女濃安都」はじめ多くの史料に見える。

 信頼して役を与えて派遣した者たちが皮肉にもクーデターで重要な役回りをすることになってしまった。

 

◎「鶉衣」を史料として読む

 横井孫右衛門こと也有が著した「鶉衣」の元文三年に書かれた二句を挙げる。

 俳文は風流を専らとするから生々しい政争がそのまま書かれるわけではないことを予めことわっておきたい。比喩をどう解釈するのかが肝要だと筆者は考えている。

 

名徳利説(とくりになづくるのせつ)

題の下に「応星野氏需(ほしのしのもとめにおうじて)」「元文三年冬」とある。押込が解けて宗春が再出勤し数ヶ月後の作となる。

 俳文の内容は、徳利を持参した星野氏に也有が銘を求められ、その名を「此童」とした意味を語る。

 内容に入る前に筆者の見立てを記しておきたい。星野氏は八左衛門。徳利は織部を表しているのだ。

 まず、備前焼の六升徳利は銚子と違って注ぎ口がどちらへも向かず空に向かっており「いづれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそなふなるべし」と不偏であることを褒めている。

 次に、竹を愛した王子猷(おうしゆう)の故事をひいて星野氏の膝下にまつわっていた徳利を「かの此君の名の古きを尋ねて『此童』とよばん」と命名する。

 此君は一般には竹のことだ。酒徳利が身近にあることを「膝下にまつわる」とするのは無理のある表現で後の「童」と考え併せると也有は徳利に人を見ている。織部の古き名は「此面」という。

 句に至る最後の部分はそのまま引用する。 

 世の近侍の童は、立居に尻のかろきをほむれども、此童の奉公振は、ただいつまでも、いつまで草の根づよく、尻の重からむこそ、主人の心には叶ふなるべけれ。

  近頃の小姓は動きの良い者が褒められるが、本来はこの者のいつまでも根強く、尻の重い奉公こそが主人の意に叶うものなのだ。

 遠山大膳が小姓から転出し、押込以降多くの側近が離れていくが、織部はいつまでも頑なに宗春に従ったことを也有は褒めていると取れる。

 

月に雪に花に徳利の四方面

 

 一般には、何にでも合う四面徳利であるよ、と解釈されている。史料として見る筆者の解釈は大いに異なる。「月に雪に花に」は白居易の「雪月花の時、最も君を憶う」を意識して「忠君」を表す。四方面は四面楚歌を意味しているのだ。備前の六升も入る大徳利に四面のものなどあるはすがない。也有は家中で四面楚歌でも不偏に主君に仕える織部をそのままにしておけと八左衛門に言ったのだ。

 

 次にこれに先立つ「元文戊午(三年)之秋」と付され「手水鉢銘」と題された部分。おそらく宗春が押込に遭っている最中と思われる。

 これも手水鉢の銘を友人の堀田六林から求められた際に「時々新」と名付けたことについてかかれている。これも最後の部分を引用する。

世はよし五月雨のはれみくもりみ、蹌踉(そうろう)の水は濁るとも、ひとり此水の底清からましかば、纓(えい)を洗ひ耳をすゝぎて、長く閑居の契をもむすべとぞ。

 

汲みかへてもとの月あり手水鉢

 

 たとえ世の中が、梅雨時のように晴れたり曇ったりして、蹌踉の水のように濁ったとしても、この手水鉢の底だけは清いから冠の紐を洗い、汚れたことを聞いた耳を濯いで隠居暮らしの縁とするがよい。

 この俳文には中国の二つの古典からの引用がある。

 ひとつは、漁父の辞。潔癖な屈原に漁師は蹌踉川の水が清ければ冠の紐を洗えばよいし、濁っていれば足を洗えばいいじゃないか、と時流に合わせ妥協することをといたもの。

 もうひとつは、「史記正義」等にある故事から、帝位を譲ると聞いて「汚らわしいことを聞いた」と川で耳を濯いで隠遁した許由の話。

 俳諧の心得である不易流行を水の在り方で表現し、水に関わる故事を交えて六林の清しい閑居を羨んでいるようだ。時の尾張藩政は目まぐるしく事態が転変し、用人を勤めていると汚らわしいことも多く聞いたことだろう。一方、句には藩主が変わったとしても、いや藩主を変えても代々の奉公は変わらないという自信がみなぎっているように見える。

 因みに「柳営日次記」に見えるもう一人の用人富永定右衛門は六林の実兄である。

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