一枚岩ではなかった吉宗政権~尾張家への御使の考察

◎綱吉仁政の名残り

 結果からみて宗春と吉宗が対立したという視点で見ているとディテールが見えてこない。そもそも和を以て貴しとなす厩戸王以来の伝統で独裁者は日本には現れなかった、と書くと批判もあろうが、少なくとも宗春も吉宗も独裁者ではなかったようだ。吉宗は現実をしっかりと見据えたバランス感覚のある将軍だったと思われる。適材適所で向き不向きを見て使者を選択していたようだ。

 宗春代の尾張家(藩邸以外も含む)への使者を下の表にまとめた。

 当初は老中在任期間の長い松平乗邑が最高格の御使として訪問したが、いわゆる三ケ条の詰問の後は、松平輝貞が多く御使となった。輝貞は厳密には老中ではないが老中格で御意見番といったものだったと思われる。表中の老中を就任の古い順に書き並べる。数字は享保17年当時の年齢。

松平乗邑 47

酒井忠音 42

松平信祝 50

松平輝貞 68 (老中格)

黒田直邦 67 (西之丸)

因みに吉宗は49歳。使番の滝川元長は71歳。

 後に幕閣に加わった者の方が年上という逆転現象が起きている。

 滝川元長を含めて60歳以上の共通点は五代将軍綱吉に仕えていたことだ。輝貞は生類憐みの心を強く持ち続け、吉宗の方が鷹狩の獲物を与えることを控えたという。先の記事で書いたように直邦は荻生徂徠、太宰春台との交わり深い学者でもある沼田の名君の誉れ高い。

 三ケ条の詰問の後、使者の元長を清戸へ誘い懐柔し、嫡子萬五郎の節句祝いに輝貞が使者となり、その後の尾張家向きお定まりの使者となった。宗春の施政に理解を示す綱吉恩顧の者たち――筆者はここに綱吉も目指した仁政の名残りを見る。

 清戸へ誘われなかったもう一人の使者石河政朝は、尾張家老竹腰正武の実弟であり、後に町奉行となって乗邑の下で公事方御定書の編纂に携わることになる。

 

◎欝だった宗春

 表中、享保十七年の三ケ条の詰問後の宗春の病気について新たな知見がある。

『稿本藩士名寄』の大寄合野崎主税の項に興味深い記事がある。

享保十六年亥六月廿八日 御朦氣為御尋使被進候 上御礼使相勤候付有徳院様江御目見

 朦氣(鬱病)見舞いに使者が来て、その御礼の使いとなって吉宗に御目見えした。鬱病となったのは誰か?主語がないが「御」朦氣と敬ってあるから宗春以外には考えられない。ところが年が違う。享保十六年六月は宗春は国元に居り、そこに病気見舞いの使者が来たとは考えにくいから、後年提出した野崎家家譜の単純な年の誤記であろう。享保十七年の宗春の病は鬱病であった可能性が高い。

 

◎吉宗が宗春に急報

 元文元(享保二十一)年三月の参府直前の駅使による尋問はかなり重要な知らせであったと筆者は考えている。これに呼応するように宗春は道中で新地を一カ所に取り纏めることを令した。この令が三月十一日に名古屋に届いたことが「遊女濃安都」に記され、「尾藩世紀」では島田宿で発令したと特定している。さらに、参府着邸後、吉宗との対面の前に宗春は新地全廃の令を出した。

 つまり、このまま参府しては宗春にとって良くないことが起こることという忠告だったに違いない。令の内容から遡って想像すれば、名古屋の風俗紊乱への抜本的な対策がなされなければ藩主解任もやむなし、というものだったのであろう。幕府の正史たる「徳川実紀」にとられているわけだから、幕閣の誰かが勝手に伝えてものであるはずはなく、吉宗本人からの報せと考えるのが妥当だろう。宗春就任時に二人の間に伝書ホットラインがあったことは「月堂見聞記」にも書かれている。

 江戸詰になっていた竹腰正武が藩主押込に対する内諾を幕閣に求めていたと考えられないか。駅使による尋問は、その動きを知った吉宗が垂れた蜘蛛の糸だった。

 正武は参府した宗春に追い打ちをかけ、一カ所でも遊所を残すようでは手緩いと迫ったものと思われる。

 自ら許した遊所の廃止とそれに伴い職を失う新地の者らの行く末を想うと忍び難い辛さがあったろう。一方で吉宗の恩情を裏切るほど薄情な宗春でもなかった。

太宰春台コネクション

◎奇を好む儒者

 太宰春台は荻生徂徠の門下の博覧強記の儒学者だ。厳しく子弟の礼を求め大名の子弟にも謹厳であった。その説くところは軽やかだ。「今の世では金銀を手に入れる計をなすことが急務であり、それには商人のように売買することが一番近道である。領主が金を出して国の土産や貨物を全部買い取って他国で売るのが良い」と明らかに重商主義的な経済思想へ進展=転換している。

 一方、舞や笛にも秀でていた。京都で放浪中に辻氏から舞の免許状を貰っている。黒田直邦からもらった舞衣をもっていた。笙も吹くが横笛がもっとも得意で名手だった。(「太宰春台」 武部善人 吉川弘文館)

 

◎露見すれば間違いなく首が飛ぶ上書

 「恐れながら封亊を以って言上仕り候」という書き出しから「太宰純誠惶誠恐頓首々々死罪々々謹言」という上表の形式に基いた享保十八年の上書が伝わっている。太宰春台から前年に西之丸老中となった黒田直邦へ宛てたもので吉宗の失政を諫言すべしと訴えかける。直邦が腹の据わった人格者であったから良かったものの露見すれば死罪は確実だったろう。内容は極めて辛辣だ。この年の正月には江戸で初めての米屋の打ち壊しが起きていた。幕府の指示で大坂の米相場に介入していた高間伝兵衛宅が襲われたから状況は深刻だったから、春台も幕閣も真剣だった。

 米相場に介入して吉宗が「人民と利を争い候ては、いつとても民に勝候ことあたはず、却って民の怨心を引起し候」、上が利を求めるから家臣も天下万民の事より私利を優先するようになる。この際、「山王、神田以下諸社の神事を先規のごとく執行せしめ、遊女丁、見世物場を故のごとく許され、都て繁雑なる政令を一切に停止せられ候はば、万民欣喜仕」

 これは宗春の施政に倣えと言っているようにしか思えない。

 

◎尾張年寄との接点

 そもそも直邦は荻生徂徠門下で春台にも私淑していた。だからこのような上書も受け入れたのだった。

 宗春と徂徠学の接点については林由紀子氏の研究がある。(「徳川宗春の法律感と政策」『近世名古屋享元絵巻の世界』清文堂)氏が徂徠学との接点があったとする尾張藩士の中に鈴木明雅がいる。享保十四年従五位下朝散大夫になった時、春台から詩文を贈られるほど親しい間柄だった。

 尾張の知恵者として『趨庭雑話』は、次のようなエピソードを伝える。

 章善(宗春)公の時、覇府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 幕府老中から木曽の木を使わせろと言われたところを明雅が良いですよ。でも木を流して運ぶ木曽川はお貸しできない、と答えた。まるで一休頓智話。これが公式に言い渡された話だとは筆者(大野)は思わない。人々が返答に窮したという部分は盛ったところだ。思うに元は幕府老中となされた茶飲み話だったのだろう。明雅が冗談話を交わせる仲の幕府老中は前述の黒田直邦であったに違いない。

 

◎宗春シンパの老中

 さて、意を決した上書を受けた直邦は吉宗に諫言したのか?残念ながらそれは記録にないが、この後、禁止だったはずの豊後節が禁制の心中物を上演できたのは直邦の意見があったのではないかと筆者は思っている。禁制の心中物とは、名古屋発の「睦月連理の玉椿」のことだ。

 幕府の豊後節取締り方針の曲折は笠谷和比古氏の「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」(『日本研究』 国際日本文化研究センター紀要 第三三集、二〇〇六年)に詳しい。

 「吉宗と宗春が対立した」という硬直化した視点からでは幕府方針の曲折は説明できない。幕閣の中にも宗春の目指す仁政に理解を示す者もあった。筆者は黒田直邦以外にも居たと考えている。

入墨か、半剃りか

◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。

 オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。

 タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。

 

◎罪人の印に

 デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。

「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」

 十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。

 消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。

 

◎半剃りの刑

 元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。

「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」

 罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?

 

◎牢に入った小者を側近の物頭に

 宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。

 

112-112 浅田市右衛門

▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱

  金五両御扶持方二人分被下置

▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下

▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付

  御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下

▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付

  御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置

 

 主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。

 

▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り

  永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡

 

 梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……

 

▽ 同十六年四月 出牢被仰付

  千賀与五兵衛知行所江御指遣シ

 

 市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。

 そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。

 

▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出

  御切米拾三石御扶持方三人分被下置

▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付

  御切米廿七石二人扶持被下置

▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付

  御加増四拾石都合八拾石五人分被成下

▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭

  御小納戸兼役被仰付

  新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下

 

 昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。

 

◎時が経てば消える罰

 宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。

 「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。

 半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。

敢えて正室として迎えず 謎の美女阿薫

◎部屋住みは辛いよ

 尾張藩主の弟たちが最初に迎える妻は側室と相場は決まっている。なぜなら当主に万一のことがあれば御三家当主に相応しい正室を迎えなければならないからだ。宗春の兄の継友は藩主となってから摂家の近衛家の姫を迎えた。吉宗も紀州藩主となってから伏見宮の女王を正室に迎えている。紀州家は二代藩主光貞の正室も同じく伏見宮の女王だ。一方、尾張家三代の吉通の正室は摂家の九条家だった。御三家の序列では尾張が上なのに、正室の出自は逆転しているのだ。

 

◎女王の格上を娶る

 皇女しかない、と宗春は考えただろう。筆者は、享保十六年に適齢の皇女を探してみた。中御門天皇の第一皇女は、まだ十一歳。先代の東山天皇には存命の皇女なし。さらに一代遡ると仙洞御所の霊元上皇。するとただ一人独身の皇女が見つかった。しかも十八歳。二歳で婚約したが、翌年、相手の死去で破談になった――幼将軍家継の婚約者八十宮だ。親王宣下があって吉子内親王となっていた。宗春は尾張相続の前から意識していたのではなかろうか。娘の名は八百姫、八千姫という。

 

◎吉子は兄嫁の叔母

 宗春の兄の吉通の正室の瑞祥院(輔姫)は九条家から輿入れした。その母益子内親王は後西天皇の第十皇女で霊元天皇の猶子となって九条家に嫁いだ。吉子と姉妹ということになる。つまり、兄嫁である瑞祥院にとって吉子は叔母に当たる。九条家には吉通の娘の千が嫁いでいる。一度は徳川と縁づいた皇女でもあり十分に話を進められる素地はある。だが、歴史上、吉子内親王は享保十七年に出家するのだから、当初は悲恋として描こうと考えていた。宗春の側室を調べていた際、とあるウェブサイトで気付く前は……。

 

◎享保十七年十月の符合

 「尾張藩の殿さま列伝」作家の藤澤茂弘さんのサイトで宗春の側室阿薫(おくん)の和歌集があることを知った。阿薫が特別な側室だったことが分かり想像が膨らんでいった。今こうしてブログとしてウェブサイトに残しているのは、市井の研究者への還元のためだ。

 本人の死後に冷泉宗家、為村、為泰といった歌の上手の添削による四千二百首が編まれた「阿薫和歌集」は、鶴舞図書館河村文庫と蓬左文庫にある。

 河村文庫本の伊藤将親の後記。

宝泉院阿薫芳負禅定尼諱は華子和泉と称す猪

甘氏にして其先近江の人成りはじめ織田家につかへのち

豊臣の家臣と成り両家滅亡の後都に出て代々処士たり

父を宗貞といふ母は鈴木氏正徳五年乙未三月十六日に父

の家に生れ給ふ享保十七年壬子十月

章善院殿の殿内に入給ふ

尼公容儀すぐれて婦徳をおさめ小星の光おはす

公御国務の時より位遁れ給ふ後まで左右に侍りて

采蘩の助けまします

戴公殊に其労を賞し意を給ひ品秩およそ夫人の

礼に准じさせ給ふ

今の殿に成りても厚遇亦同じ

 

 阿薫の諱は華子、和泉。家は猪甘(いかい)氏、近江の出で織豊の家臣だったが後は都で代々浪人だった。父は宗貞、母は鈴木氏の出。正徳五年に生れ、享保十七年十月に宗春の側室となった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から隠居の後まで側にあり夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞でて正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇している。

 隠居後も側室の中でただ一人連れ添った特別な側室であったことを語っている。

 さらに注目すべきは奥に入った年月――享保十七年十月。これはまさに吉子が出家したとされる年月と符合するのだ。因みに吉子の生まれは正徳四年八月二十二日で阿薫は一つ下となる。

 

◎せめて御殿ぐらいは用意したい

 御三家に相応しい正室を迎えた!と天下に公言するわけにはいかない。大らかな万葉の頃「安見児得たり」と手放しで嫁取りを喜んだ鎌足とは状況が違う。正室とすれば出自を問われる。宗春は名を捨てて実をとったのだ。自ら希求していた体面を保つための、あるいは家格を上昇させるための婚姻を深く省みただろう。以降、宗春は正室を迎えようとはしなかった。

宗春の失政に数えられる一つに乾御殿がある。乾というから城から北西にあるのかと考えたが、適当な御殿地はなかった。おそらく場所は円頓寺の北、尾張の支藩高須家の屋敷地と考えられる。高須家は江戸住まいで領地である美濃高須に来ることがなく、名古屋に来ることもなかったから館はなかったものと思う。二之丸御殿や広大な下屋敷があるのに、なぜさらに御殿が必要だったのか?――位の高い女性を迎えるのに新御殿を建てるのは当時の常識だ。批判的な家臣は高須家を相続した義淳(後の宗勝)に注進したことだろう。理由を明らかにできない宗春の胸の内はいかばかりだったかと思い遣られる。

 果たしてこれを知っていた家臣はいなかったのだろうか?

 

◎儒者の暗号

 実際に縁組に動いたのは家臣だったはずだから知る者はいたはずだ。知っていて、伝えたいのだが、あからさまに伝えることができないとき、人はどのようにメッセージを残すのだろう。

 実はこの項を書き始めて改めて阿薫和歌集の序文を見ていた時にそれを見つけた。序文の作者は岡田挺之。またの名を新川、仙太郎という儒者で藩校明倫堂の教授を勤めた。

 同書のマイクロフィルムからの複写で状態が悪く、特に下の部分は所蔵印と重なって判読しづらいのでトリミングした。後記と同時にカラー写真で撮影させてもらえばよかったと後悔している。

 一行が十九文字に揃えて書いてある。岡田挺之の版行されたものは漢文でも一行の文字数が揃っていないものがある。とくに文末を示す「也」は、前行の字数が多くなっても行末に押し込めている。また、漢文で序文に残すのは作者の出自や業績など――ちょうど前述の後記のような内容が常套と思うのだが、この序文は雰囲気が異なる。和歌三神に数えられる衣通姫(そとおりひめ)と六歌仙の小野小町とを挙げ女流歌人から書き出している。出自は後記よりあっさりと猪飼氏、諱は華子とある。

 七文字ずつ区切って末を読むと「咎無くて死す」と読めるいろは歌や伊勢物語のかきつばたの折句は有名だが、漢詩にも折句のようなものがあり蔵頭詩といい、頭文字を拾うと意味があるという。この序文は漢詩ではないが、大切なメッセージが隠されている。

 読者はもうお判りだろうか?頭文字で「仙洞也」と読める。仙洞御所――吉子が生まれた御所であり、仙洞様は永らく吉子の父霊元院を表していた。六歌仙と書かず「六仙」としたり、艶めかしさが漂う「洞房窈窕」を敢えて使ったりして頭文字を無理矢理合わせた感を筆者は抱くのだが、漢文や岡田新川の研究者による分析を待ちたい。

(追記)

 蓬左文庫の蟹江本を確認したところ、同じく仙洞也と読めた。異なる点もあった。

1.題が「阿薫和歌集」となっている。

2.宗春の死去を「公薨」でなく「公捐館舎」としている。

3.「冷泉家」で平出を用いている。(敬って改行している)

4.録而蔵于家の助字「于」がない。

 天明五年は謹慎が解かれる前だったから薨去の字を使うのが公式には憚られたものと思われる。よって蟹江本は公式に献呈されたものと考えられる。蟹江本は原本でありそれを写した宗春恩顧の者が書き写した際に「薨」と直したのだろう。

 

富士見原 湯上りに遊女と花火で一杯

◎江戸時代のスーパー銭湯

 スーパー銭湯の発祥が名古屋という話を調べてみたら、名古屋コンベンションビューローのウェブサイトは「1985年の高岡市が一番古い」とあっさりとその座を譲っている。それ以前からヘルスセンターという複合温泉施設は存在しており、何をもってスーパー銭湯というかあいまいではある。銭湯を中心とした複合遊戯施設と定義すれば実は名古屋が一番古い。それは享保十七(1732)年夏のこと。

 ◎ソワレもOK

 西小路、葛町と同じく享保十六年に開設された遊所の富士見原は、中区下前津交差点の南、橘と富士見町あたりにあった。富士見と言っても富士山は見えない。北斎は富嶽三十六景の尾州不二見原で大樽の間に富士山を描いているが、全くの創作だ。

 ここは不思議な遊所で様々な地図が伝わる。

 「名古屋錦」及び「夢之跡」から作成され、明治の名古屋市史に使われた地図が「なごやコレクション」で公開されている。

 猿猴庵による「尾陽戯場事始」の挿絵は☆印から見たもの。

 わざわざ夜芝居と書いているのは、当時の芝居がマチネーのみだったからだ。夜の興行は許されていなかった。右側に矢倉があるのが芝居小屋。左手に花火が上がっているが、打ち上げ場所は絵の右手奥だったと思われる。

 地図をよく見ていくと(人形)福引とか遠眼鏡とか面白い店があるが、割愛して、南端を拡大する。

 中央に「入湯」とある。別図には「薬湯」と書かれる。「月堂見聞集」に「有馬の汲み湯と申し立て」とあるのがこれなのだろう。周辺には蒲焼、酒肴、田楽その他色々、などナイトバザールの様相。東には「二階作り貸座敷」があり、猿猴庵の絵の奥の方に風呂屋と共に描かれている。猿猴庵がこの南北に長い地図に基いて描いたことが推測できる。

 ◎在地資本が京阪からの遊女を抱えた

 先日、西尾市岩瀬文庫で見た寛延三年に写された地図は東西に長く、翻刻された「遊女濃安都」に掲載された地図に近く、引用した地図と趣を異にする。著作権の関係でここに出せないのが残念だが、そこに記されたものを抜粋転記すると

開地享保十六辛亥年号富士見原当地永安寺町八郎右衛門家取立始而此所ヘ翌十七壬子年春移ル家三軒立八郎右衛門則改富士見屋外日野屋若松屋右三軒也京大坂より遊女共罷越繁昌吉田より華火取組夥布賑合ニ而有之

 享保十六年に開かれ富士見原と号した。名古屋の永安寺町の八郎右衛門が家を建て始め、翌年春には富士見屋と名を改めた八郎右衛門の他に日野屋、若松屋が建って、京都や大阪から遊女が来て、吉田(豊橋)からの花火が半端なく打ち上げられ大いに賑わった。

 富士見原の南は空地が広かったようで、お大尽の二階座敷に始まり、貸席、涼み台とそれぞれの分に合った楽しみ方ができたようだ。花火の観客は堀を越えて富士見原の南に群集していたらしい。

 ◎花火の仕掛け人は酒屋

 「遊女濃安都」は次のように伝えている。

長者町和泉屋権右衛門方へ、三州吉田より客人有之、富士見ヶ原にて花火揚候由、風聞申出、今日古今の賑合、前津田畑を踏荒、押合へし合、溝川は勿論、肥壺へ落るもの夥し。花火、さのみ替事なき流星玉火計なり。

 長者町の和泉屋権右衛門に三河吉田から客人があって、富士見原で花火をあげたそうで、聞くところによれば、未だかつてない賑わいで、(観客は)前津の田畑を踏み荒らして押し合いへし合いして、堀や小川に落ちる者、果ては肥溜に落ちる者も多くあった。花火はとりたてて変わったところのない流星玉ばかりだったけどね。

 上長者町の和泉屋権右衛門は酒屋だ。先に引用した地図の文から三河吉田の客人とは花火師というのがわかる。つまり書き手は和泉屋が富士見原の花火の仕掛け人だとほのめかしている。それはさぞ酒も売れたことだろう。これが隅田川花火が始まる一年前のこと。

 いわゆる同伴で登楼する前、風呂上りに座敷を借りて遊女と花火で一杯酌み交わすといった島原にも吉原にも無い肩肘張らない遊びがここにはあったのだろう。

 もはやスーパー銭湯の範疇には納まらない……これは統合型リゾート?それでもギャンブルだけは御法度だった。

葛町 うんとん山本屋

◎創業が古いと何が良い?

 京都のお菓子井筒八ツ橋本舗が同業者の聖護院八ツ橋総本店の元禄創業に根拠がないという訴訟は、今月22日、第一回口頭弁論が行われたそうだ。ウェブサイトを見ると双方とも最初の方に歴史の項目が置かれている。どちらも本家本元という決定打を欠く中での争いになりそうだ。静かに京の銘菓として売っていれば良いのにと思うのは筆者が京都人ではないからだろう。あそこで生きるのは大変だ。

 さて、名古屋の味噌煮込みうどんといえば山本屋さん。大手では山本屋総本家と山本屋本店がある。ウェブサイトを見ると双方とも老舗なのに歴史の項目がない。創業が古いことに価値を見出さないのか?それとも平和条約が締結されているのか?実を取る名古屋で重要なのは歴史ではなく、味と値段なのかもしれない。

 

◎葛町 山王稲荷前

 そんな火の気のないところに享保の山本屋のことをもち出すのは少し気がひけるが、見つけてしまったからご容赦願いたい。

 「不たつさか津き」という享保代に名古屋で出版された本で、西小路と富士見原の遊女の名を書き連ね、遊所をストーリー仕立てで紹介した評判記だ。この本では、まがりなりにも堀のある西小路と富士見原を両廓とみて二つ盃と見立てており、今回紹介する葛町(かつらまち)は廓外とする。

 堀もなければ木戸もないが、妓楼も芝居もあるので他の本では三遊所の一つに数えられている。場所は今の正木小学校の北端が本通りに当たる。

 右から見ていくと、鳥居に「稲荷前」とある。鳥居前の立札の前の男の台詞が分かりにくく自信がないのだが「かつはと わたぶと 両十八番じゃの」二つの演目はオハコだなと言うのか?中央の大黒頭巾の男が「一段聞いて行こ」少し聞いて行こうと。 山本屋前の女たちは「にぎやかなことじゃて」歓楽堂前の侍は「これは確かにつられもの」と言う。

 見世は右から「菜飯」つぎは田楽と思われる。当時は丸い豆腐を串に刺した。続ければ菜飯田楽…山本屋、うんとん、とくればきっと味噌味だろう、と作中には味噌煮込みうどんとして書いた。

「なごやコレクション」名古屋遊廓(市20133)より

 上が北。☆からの視点で男たちの見ている立札は山王稲荷に入って右手の「浄瑠璃」の看板なのだろう。山本屋と歓楽堂は橘町通りの東側で地図になく葛町ではない。橘町通りを南に向かい西へ曲がると葛町のメインストリートだ。ここも鉤の手になっている。道の真ん中の注意書きを読むと、「芝居へ、この空家より入る」とある。空家を北へ向かうと「宮古路豊後芝居」とある。豊後節を創始した浄瑠璃語りが名古屋に滞在していたのだった。その独特な泣くような語りが特徴。きっとマイケル・ジャクソンが入れる「アッ」という喉を詰まらせる語りだったのだろう。宗春の失脚には宮古路の影響が大きいので後にブログにも書くことになろうから、今はこのくらいにしたい。地図では宮古路豊後芝居は道に面しているのに空き家を入口としたとは、にくい演出ではないか。ディズニーランドなど現在のテーマパークのような日常から非日常への誘いの妙味を心得ている。

◎葛町 奥

 「尾陽戯場事始」の猿猴庵の絵だ。辰巳屋で客引きに止められて剽軽にしている二人は素見、ひやかしの客。宗春を真似て供の者に長い煙管を持たせた者も多かったらしい。

 この絵は、芝居のセットのように奥行きがなく奇妙だ。肝心の芝居は左上の櫓が懸っているところだが……

 同じく北が上。前掲の葛通りの突き当り近く。北に行くと西小路に繋がる。猿猴庵の絵は見世の並びから☆からと考えられる。林がある空き地で芝居も掛ったのだろう。ただし、その向こうにうだつのあるような豪壮な建物は地図には無い。

 地図の南西に「たいや」は鯛屋という妓楼で遊女濃安都によると三五という遊女が小三郎に身請けされたとある。作中ではこれを師崎の羽差に当てた。

 その三軒隣のうどん屋を宗春主従が入った見世とした。うどん屋の裏手からは闇森(くらがりのもり)八幡社の木立が見えたかもしれない。

 享保十八年霜月、飴屋町花村屋女郎の小さんと日置の畳屋の喜八の心中未遂=名古屋心中の起きた場所だ。これを名古屋滞在中の宮古路豊後が「睦月連理玉椿(むつきれんりのたまつばき)」という浄瑠璃にして名古屋、その後、江戸で大ヒットとなり豊後節は社会現象まで引き起こした。

 こんな全国的なヒットを生んだエピソードを京の菓子屋なら放ってはおかないだろう。当時、お上の手前できなかったのは解かる。今からでも遅くはない。恋愛成就のお菓子「連理玉椿」なんて名古屋銘菓があっても良いと思うのだが……。

西小路(2) 伊勢音頭の謎

◎石碑に込めた想い

 昨年二月に小刀屋藤左衛門こと木全湛水の終焉の地である篠島を訪れた際、島の人に訊いても、島内に在ると聞いていた湛水の歌碑はとうとう見つからなかった。きっとどこかの木の下に人目を避けてひっそりとあるのだろう。その帰り、師崎の岬の先端でSKE48の「羽豆岬」の碑を見た。探していたわけではない目に飛び込んできたのだ。豆の形(ハート型?)で開けた岬の先端に建立されていた。地域密着・地域貢献がSKEの活動のテーマだという。喧伝される噂より、一人一人、リアリティが大切という姿勢は、蓋し人気者づくりの原点だろう。ならば地域おこしに使おうという地元の商工会の思いも解らないではない。アイドルと石碑というミスマッチを狙ったのだろうか。

 不勉強で「羽豆岬」という楽曲を知らなかったが、ここで紹介する伊勢音頭は、二百年以上人口に膾炙している。それなのに発祥の地には未だ石碑がないどころか知られてもいない。

 

◎伊勢音頭は川崎音頭

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ

 これが伊勢音頭だ、と一般には思われているが、この歌ができた当初は、川崎音頭と呼ばれていた。

 慶応二(1866)年に出版された「神境秘事談」によれば、伊勢川崎音頭は享保の頃、吹上町奥山桃雲が川崎町伊藤又市梅路に作詞させ、同町の鍛冶屋長右衛門と草司に作曲させたという。だが、その歌詞についてはふれられていない。これにより川崎町で作られたから川崎音頭と呼ばれたと推測できる。

 では、いつから川崎音頭が伊勢音頭と呼ばれるようになったのか?

 寛政九(1797)年に出版された「伊勢参宮名所図会」古市の図。三味線二挺に合わせて踊り子が輪になって踊る様子だ。客の男は点在していて実に自由だ。鯛の尾頭付きで酒を注されて上機嫌な者、浮かれて一緒に踊る者、踊りは見ず「こういう雰囲気が好きなんだ」と縁側で寝そべっている者もある。苔むした手水の下は万年青だろうか。料理と酒は座敷のどこでも運ばれる。テーブルとイスのない宴には開放感がある。閑話休題。見るべきは上部の説明書き……

 古市も間の山(あいのやま)地域なので間の山節を唄っていたのだが、移り変わりでいつの頃からか川崎音頭が流行してこれを伊勢音頭と呼んで町中も田舎も廓の唄と同じになってしまった、という内容。

 江戸後期に書かれた「守貞謾稿」は、楼ごとに歌詞や唄の長さに違いがあってすべてを同じ音頭というべきかどうか、と疑義を呈している。守貞は伊勢音頭の歌詞として三つを挙げている。順に……

「大坂はなれてはや玉造り、笠をかうなら深江が名所、ヤアトコセー、ヨイヤナ、アリヤリヤ、コリヤリヤ、ソリヤナンデモセー。」

 これはできの悪いコマーシャルソングではないか!これを伊勢で唄ったところで客は腑に落ちないだろう。カタカナの囃子言葉は、あれもこれも何でもせよ、と勧めているようだ。Do what you like!

「伊勢へ七たび熊野へ三度、愛宕さまへは月まゐり、ヤアトコセー、云々」

 全国に点在する身近な愛宕神社へ参詣を欠かさない信心深い者の足を伊勢に向ける擦り込みか……?

「いせは津でもつ、津はいせでもつ、尾張名古やは城でもつ、云々」

 なぜ、唐突に尾張なのだろう。思うに深江同様に尾張で唄われた国誉めのバージョンなのだろう。

 

◎謎かけの芸風

 ねずっちの古典的謎掛け、堺すすむさんの「な~んでか」、テツ&トモの「なんでだろう」と脳みそをくすぐる芸風は今も根強い。実は伊勢音頭もちょっとした謎掛けなのだ。

 伊勢音頭をyoutubeで見てみると多くの地域で今も歌い踊られているようだが、ほとんどは、前段として「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」と続きで唄い、やや間があって「尾張名古屋は」ときて、その次に「やんれ」など合の手が入り「城で~」と続く。

 これはつまり、伊勢と津は持ちつ持たれつだよね。さて、そこで問題!尾張名古屋は(どこと持ちつ持たれつでしょう)?と問いかける。考えさせておいて答えを言うという堺すすむ流の演芸スタイルなのだろう。答えを言わないテツトモではない。堺さんのように始終ネタを変えるならよいが、答えが知れ渡れば当然飽きられる。

 

◎尾張名古屋は何でもつ

 筆者は「城」は、当初、正答ではなかった、と考える。前段を考えると、伊勢と津が持ちつ持たれつ、と読める。さて、尾張は?とだけ訊かれると、どこかな?と脳は地名を考えはじめる。美濃かな、それとも木曽かなと……。ところが作詞者の意図は伊勢と津の縁語にある。「伊勢=大社」「津=港」だ。つまり、尾張の神宮と港はどこ?と訊いているのだ。

 尾張の大神宮は言わずと知れた熱田神宮。尾張の港といえば東海道七里の渡しのある宮宿。熱田神宮も宮にあるから、尾張は大社と港の両方を宮宿が一つで兼ね備えている。

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は 宮でもつ

 と褒めているのではないか。

 ついでに「守貞謾稿」の他の唄も名古屋バージョンにすると――

 「愛宕さま」は「熱田さん」ではなかったか?

伊勢へ七度、熊野へ三度、熱田さんへは 月参り

 地元密着だ。さらに、当時は木曽の蘭(あららぎ)の桧の笠が大流行したから……

名古屋離れて はや中津川 木曽は蘭 桧笠

 これなら語調も合うし、押し付けがましくなく品がいい。

 最初に聴いた者は「なるほどね」と腑に落ちただろう。だが腑に落ちただけだ。誰もが納得できる歌詞が大ヒットするとは限らない。というより常識すぎるとすぐに飽きる。大衆は意外性を求めるものだ。

 

◎西小路芝居で当たらず

 ここで、前回の地図に戻りたい。

 西小路芝居の枠外。

「芝居の中にて子ノ年の盆西小路女郎川崎をんどにて踊ル不当り一夜踊後止申候寅ノ年此芝居にて舞台かけ大躍り御座候」

 西小路芝居で享保十七(1732)年の盆に西小路の女郎が川崎音頭を踊ったが不評で一夜で中止になった。享保十九(1734)年で(再度)舞台にかけて大踊りとなった。

 西小路の遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったから、伊勢色をPRしつつ地域密着・地域貢献を、とご当地名古屋のお国褒めを意図したが、当初は大コケだったわけだ。ところが二年後にリベンジが大成功した。結局、先に挙げたようにここでの川崎音頭の大ヒットは伊勢古市にまで届き「伊勢は~」で始まる音頭が伊勢音頭の名で呼ばれたわけだ。

 筆者はこの二年の間に西小路のどこかの座敷で「宮」を「城」に替えた者がいたと考えている。これでは結局、成立場所が特定できず、碑の建立もできそうにない。

 

◎「城」は物ではない

 さて、次なる問題は、宮という正答を城にしてなぜ大当りとなったか。味わい深い面白みが城にはあるのか?城が立派でかっこいい、城こそ名古屋が誇れるものだから、だから、木造で再建する価値がある、というのは物質主義で浅はかな回答というしかない。「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られる。

 伊勢>>大社という連想と同じく城の意味するところ考えてみればすぐわかる。「城」は「殿様」すなわち宗春を指したのだと筆者は考える。正答をずらして「いやちがう名古屋がもっているのはお殿様のお蔭だ」と唄うことで排他意識(=俺たちだけが知っているという内輪ウケ)が生まれたのだろう。さらに、それに続く「あれもこれも何でもやってみよ」という囃子言葉は宗春治政下の自由な気風を如実に表しているのではないか。時を経て城が比喩しているところは忘れられたが、城でもつという不思議な歌詞の面白みが陳腐化を避け、延々と今日まで歌い継がれているのではないだろうか。

 現今の施政者は名古屋を活気づけた、という経済的観点でのみ宗春を真似ている。結果として町が活気づいたのであり、目指したのは人の知りたいという心を満たしていく温知であり、仁政なのだ。

 

◎宗春の建てる城

 城の再建――宗春ならどうしたか、施政者は胸に手を当てて考えて欲しい。古い図面通りの再現に拘るあまり、切り捨ててしまうようなことはしないだろう。昔の物と同じでなければ認定しないというのなら、国宝にも世界遺産にも登録されなくても良いではないか。外の評価基準に右顧左眄する必要はないのだ。人に寄り添う仁こそ宝ではないか。

 そもそも、古いものに拘らない宗春なら新技術で余所にない新しい城を作るだろう。そんなオリジナリティがのちのち町の誇りとなるのだ。エッフェル塔、ポンピドーセンター……およそ当時の街並には不似合いな建物を許してきたパリの度量の広さ。だが、尾張名古屋が昔の城そのものでもっている、と堅く信じられているうちは、旧套墨守の日々も止むを得ないか。

西小路(1)なごや新地巡り

◎六角形の錣(しころ)屋根

宗春の許可によって開発された新地は三つあった。それを順にご紹介したい。

残された絵図は少ない。以前のブログ「赤色に……」で紹介した享元絵巻にも新地が描かれている。名古屋市博物館が精彩画像で紹介している。

http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/fine_portrait/lineup/new_screen3.html

西小路は左上部。現在の松原小学校~松原公園~東輪寺の西側に当たる。

そこを拡大してみると……

 西小路芝居前の様子。赤い傘を差しかけられた女性は大夫か?檜皮ぶきに天水の載った屋根の隣に藁ぶきの粗末な屋根もある。ごちゃごちゃとして迷宮のように楽しそうだが、写実的というわけではない。町の広がりと賑わいを示すことが主眼として描かれているから致し方ないところではある。

 ほぼ同じアングルで、あまり知られていない絵が次のもの。

 漫画のような享元絵巻に比べると人が小さく書かれ建物が際立って大きく感じる。天水桶に加え「うだつ」まである立派な屋根。中央のカブトガニのような建物が西小路芝居だ。藁ぶき屋根はない。上部の書き込みを口語にする。

 西小路は今は廃れて畑となった。もっとも栄える前も畑だったのだが享保十六年の冬の頃から縄張りができた。ついに三カ所の曲輪(くるわ)が現れ、その中の西小路というのは橘町の南の東輪寺の裏通りに堀を掘って作られた場所のことだ。最初は伊勢古市の妓楼の者一人が来て家を作り始め伊勢屋某と名乗っていたところ、段々建物が立ち並んで翌年の春には一部残らず出来上がった。芝居は西小路の町並みの中程西側にあり、その外観は他と異なり屋根が六角形に造ってある。かれこれ見聞きするにつけ、懐かしいことばかり。

 出典は名古屋市史編纂資料として模写されたもの。元の「尾陽戯場(芝居)事始」は名古屋で上演された演劇を時系列で記したもので挿絵のオリジナルは尾張家家臣高力種信(猿猴庵)の筆によるという。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001793

 猿猴庵なら元絵に色がついていると思うのだが、現時点で筆者には調べ切れていない。

 

◎卍型交差点

 右手の建物が西小路芝居より手前に迫り出してきているのをお気づきだろうか?

 「なごやコレクション」に地図がある。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00002032

 この地図の来歴は後回しにして上の絵に描かれた辺りをクローズアップしてみよう。

 星印の上空から見ると「尾陽戯場事始」の絵のアングルとなる。交差点を見ると鉤の手が組み合わさった卍型の交差となっている。どの道からも突き当りに見えて見通しが効かないが、進んでいくと正面に開け、右に開け、左に開けるわけだ。この辻だけでなく至る所が鉤の手となって「小路」の由縁となっている。名古屋城下は清州越しでできたので計画的に碁盤の目のような通りしかなかったから、迷路のような街づくりは新鮮だっただろう。

 家に居ながらこんな貴重な史料を見ることができるとは良い時代になった、とつくづく思う。

 

◎猿猴庵の想い

 地図によると絵の左右端の惣二階は「うら島屋」と「備前屋」という妓楼。芝居の右は酒屋と「なか屋」(屋号?)芝居の左は仕立て屋と煙草屋。浦島屋との間の細い路地は揚弓場に通じているのだろう。路地を伝わって「当た~り~」の声に続いて太鼓と嬌声が聞こえてきたのだろう。

 享元絵巻の藁ぶきの屋根の辺りは地図によると端女郎の小屋らしい。売春のためだけの小屋掛けを猿猴庵は意図的に備前屋の大屋根で隠し、全体として建物を立派に大きく描いているのかもしれない。

 図中の赤い印は享保二十一年四月に大火で焼失した建物を示す。賑わいは五年ともたず、また、元の畑に戻った。まさに夢の跡だ。

 猿猴庵にとっては生まれる前の出来事だが、異口同音に語られる空前絶後の遊所の姿を常々書き残したく思っていたことだろう。しかし、藩士高力種信という立場で蟄居となった宗春の時代の遊所を描くのはいかにも憚られた。そこで芝居本の挿絵として西小路芝居を描くに当たり周囲の家並を立派にしたのだろう。人もそれほど多くなく動きが少なく小さいから感情は伝わらない。だから良しとされたのだろう。

 ここで作者が問われるのは享元絵巻だ。みな楽しそうだ。石河家に伝来したという。描かせた当主は石河雅楽光当に相違ない。外には見せず、自分の若かりし日を独り懐かしんだのだろう。

 

◎「名古屋遊廓図」の来歴

 地図には明治時代に複写された旨が記されている。新しい物なのか?

 桃木書院図書館の蔵書が寄贈された神戸市に問い合わせたところ、神戸市図書館にはなかった。

 国会図書館で検索したところ、西尾市岩瀬文庫にあるものに同様の文字が入っているようだ。しかも「寛延三庚午年八月写之」と書かれているようだから、西小路の大火があった享保二十一年からわずか十四年後に地図ができていたわけだ。「遊女濃安都」はそれより早く成立し、手書きの拙い地図が入っているから不思議はない。岩瀬文庫には、別の新地「富士見原」の地図がセットであるそうだ。これはネット公開されていないから見に行くしかない。やれやれ、と春樹さんなら書くところだが、実のところ、わくわくする。

 次回は地図中の西小路芝居の枠外に書かれている部分を考察する。

どまつりの源流(2/2)

◎盆踊りが中断

 かくして盆踊りが始まった。

「町々踊、古今稀なる賑わい、衣装は様々見事なること也」(「遊女濃安都」)

 ところが三日目の十五日の朝、江戸から訃報が届いた。宗春の五女八百姫が去る十二日に二歳で早世したのだった。因みに五月には三女の八千姫が六歳で亡くなっている。城下には触れが廻り、当面十七日までは町中踊りは停止となった。「もう一日あったのに!」衣装を新調した町人らは、不完全燃焼だったろう。単なる中断でなく突然の訃報だったから意気消沈の度合いは大きかっただろう。

だが、それに続いた御触れに彼らは歓喜することになる。七月二十四日と八月一日に盆踊りをやり直す、というのだ。七七日も経たぬ前の盆祭りの催行決定は宗春しか出せない。まさに民を慈しみ、自らは忍んだわけだ。

 「遊女濃安都」の筆はその時の賑わいを懐かしむ。

「両日、盆中の通りに町々躍り、揚挑燈、掛行燈、美を尽くし、別して本町一丁目三丁目は、両側、京都四条通り両芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に、一枚看板、役者の名を書き、懸行燈、同六丁目中程は、十二月、年中世話事の影廻し致し置き候。同広小路四ツ辻には、古今大なる燈籠、諸見物群集す。京都川原の涼みの賑わいにも増したるべきとの評判。」

 先代には盆提灯にも火を灯すな、と禁じられていたのに、広小路と本町通の交差点に「大灯籠」が登場し、本町六丁目には「アニメ動画」である走馬灯が月ごとの年中行事を映していた、というのだ。

 

◎下屋敷の面影

 高禄の武家は上屋敷、下屋敷、中には中屋敷を持つものがいた。後に記すかもしれない江戸戸山の尾張下屋敷は奇々怪々のテーマパークだった。名古屋の下屋敷も広大な回遊式庭園でその中に茶店や寺社、模擬店などがあり、なかなかの奇々怪々ぶりだったらしい。現在「御下屋敷跡」は生涯学習センター前に史跡の案内板があるだけで何の痕跡もないが、その敷地の南西端が今の名古屋園芸で、北東端は水筒先北交差点に至る。

 黒は現在の施設だ。赤い部分は寺で、今も芸術創造センターの西側一帯には多くの寺が残ている。第二次世界大戦後、小川交差点から南に真っ直ぐの広い道路を通してお墓も移転したために寺域は切り刻まれてしまったが、「法華寺町筋」の通りは今も健在だ。だが、その名は今に残っていない。あの日、あれ程賑わったというのに……。

 

◎下屋敷でオールナイトで大踊り

さらに踊りは続いた。

先代継友が経費節減のため下屋敷内の一部の御殿を棄却していたが、宗春は、おそらく尾張を相続してすぐに、新築を命じた。それがめでたく竣工し、おそらくその祝いも兼ねて子どもを含む町々の踊り連を招き入れたのだった。

「遊女濃安都」に段取りが詳しい。前日に町の代表を招いてくじ引きで番を決めたという。

「二十二日朝六ツ時より初り、順々にまかり出、これを相勤める。七十九番までこれあり候」

 二十二日に朝六時から始まって七十九番まであった。

「もっとも、町々だし作りもの、右番付を相印、暁七ツ頃までに終」

 各町の山車や作り物に番号を記したので祭当日の午前四時にやっと終わった、と追加しているところを見ると参加者が書き足したのだろう。番号を記したのはコンペだったからだ。プレゼン前の熱気が伝わってくる。

「法華寺町の寺々に二町三町づつ宿札を打、休息いたし、番選にてまかり出、そのほか、町家にても、代官町・法華寺町上屋敷方へも、縁を以って幕を打、休息所とし、不明御門より鼠壁御殿前御門前迄、茶店大分出、大賑合なり」

 法華寺町の各寺に二三町を割り振って控え所として出番に備え、町家や代官町や法華寺町の上の武家屋敷でも縁台の周りに幕を引き回して控え所とした。屋台の茶店がたくさん出て大賑わいとなった。不明(駿河)門は下屋敷南、鼠壁御殿は下屋敷内の北西あたりにあった御殿の事かと思われる。踊り手は正門から御殿の前庭へ踊り込んだのだろう。

「大人子供も帷子に金紋をき、衣裳に緋純子、島繻子、緋縮緬の類を着て踊申候」(「月堂見聞集」)

 お殿様の御屋敷を訪れるのだから下に着る帷子から金紋入りで赤い緞子、縞の繻子、赤の縮緬など高級な衣装で踊ったという。

「品々作り物、掛行燈、笛、鼓、太鼓、三味線、皆々、自分町より道行打囃子にて参り候。見物群集す」(「遊女濃安都」)

 自分の町から城下を囃しながらまさしく鳴り物入りで来たから、つられて見物も集まったわけだ。

 蓬左文庫の「夢の跡」によれば西国の森右衛門という大男の相撲取りを張りぼてで作って担いだり、将棋の駒の灯籠を頭に載せるといった趣向があったという。

 一等には金二両、すべての踊り連に褒美や尾張家重臣から料理が振る舞われた。以前と真逆の踊りの対応はがっちりと町人の心を掴んだだろう。

 明六ツから始まった祭りが終わったのは翌日の四ツ(午前十時)というから、28時間ぶっ続けのダンスコンペティションだった。

 

どまつりの源流(1/2)

◎名古屋が踊る

今年のどまつり(にっぽんど真ん中祭り)は愛知県内23カ所で行われるそうだ。

今から287年前の名古屋で史上空前の大規模な盆踊りが行われた。「月堂見聞集」によれば名古屋城下175カ所!それに続いてのダンスコンペティションは28時間ぶっ続け……。

どまつりの歴史はまだ浅く江戸時代にルーツがあるわけではない。だが、規制から解放されて、囃子に合わせて町で踊った人々の情熱のDNAは今に続いているに違いない。

 

◎禁じられた踊り

阿波踊りを仕切っていた観光協会が赤字つづきで徳島市主導となり、今年は総踊りをやる、やらないで内輪もめとなった。踊りを観光の目玉にしようという魂胆がそもそもよろしくない。「……見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と唄っておいて大掛かりな観覧席を作って損をしてるというのは既に阿呆を通り越している。三十年前に阿波踊りのシーズンに行ったのだが踊る場所が無くてがっかりしたことを思い出した。踊りのスタイルはいろいろあろう。郡上踊りには、見るだけの阿呆はいない。誰でもいつでも同じ踊りの輪に出入りできる。しかも駐車場あたりでは街はひっそりしている。城下町の角を曲がって踊り子の姿が見えると同時に囃子が聞こえるから町々に小さなスピーカーをいくつも配しているのだろう。騒音対策として関東でイヤホンで盆踊りがあるというが、それでは体に響く音がないし、その場の一体感がないだろう。郡上方式を教えてあげたい。

鳴物に合わせて身体を躍動させる踊りは理屈ではない。踊りたいから踊るのだ。踊るなと言われると益々踊りたくなる。事実、江戸時代は踊りが制限されていた。もちろん騒音は問題ではなく治安維持、風俗紊乱を防ぐためだ。

 

◎異相なる体を禁ズ

先の継友代には踊りに対する制限が山ほどあった。享保七年の町触(まちぶれ)から禁止の細目を見ると当時の庶民の盆踊りに対する創意工夫の情熱が見える。

「装束を拵へ、裏又は家の内は躍り候儀、猶更まかりならず候。芸人を雇ひ物真似などいたし、三味線を入れ、床台を出し、提灯を灯し、其外異相なる体、致すまじく候。かつまた、作花・作物などを持ち候儀、または獅子の舞などいたし躍候儀、まかりならず候。申すに及ばず候えども、他町はもちろん、寺社あるいは諸士屋敷などへまかり越し躍り候儀、堅く仕るまじき事」

衣裳を作って家の裏や内で踊ってはならない。芸人を雇って物まねなどさせ、三味線を弾かせ縁台を出し、提灯を灯し、その他、普通でない姿をするな。花や小道具などを持って、または獅子舞をして躍るのもいけない。いうまでもないが、他の町はもちろん寺や神社、武家屋敷へ踊り込むのも絶対にしてはならない。

通りを挟んで同じ町内だったから、町内表とはその表通りのこと。町内裏とは通りに囲まれた1ブロックの真ん中、閑所(会所)と呼ばれた共有スペースで今ではタワーパーキングになっている。その表でなく裏でも踊ってはならぬという。踊りのパワーを怖れる理由は、最後に見える。町人が踊り集まることで高揚し、武家や寺社に祝儀を強要し受け入れられなければ騒動を起こすのではないかとの統治者の怖れがあったのだ。

さて、次のお殿様といったら、普段から鼈甲笠に緋のお召といった自ら異相なのだから、町人の期待が高まらないわけがない。

 

◎女と青少年を守れ

享保十六年七月八日、期待通りの触れが出た。「をとり」=踊り

「男形をとりの儀、当年は装束・衣類拵え候てをとり候とも、少しも御かまへ無しの候間、勝手次第にをとらせ申すべし、との御事に候」

 男の踊りについては、今年は衣裳を作っても全く構わない。好きなように踊らせよ、との仰せである。

男らは好き勝手にやれとの触れなのだが、実はこれには前段がある。

「盆中をとりの儀、町々女・子ども十四五才より以上の者、町中ならびにその町内表にてをとり申す儀遠慮仕るべく候、若々不埒にても出来申し候へは、その身のためにも宜しからず候間、この段町々女・子どもこれある町申し渡されるべく候、家内裏にてをとらせ申すべく候、その内十四五才よりの内の女・子どもは、只今迄の通り勝手次第に候」

 筆者はこの件を理解するのにかなり時間を要した。まずは、文字通りを現代語にしてみる。

盆踊りについて、各町の女と子ども14、15才以上の者は、町中や自分の町の表通りで踊るのは遠慮したほうがよい。若し不埒にも出て来ると身のためにならない。これについて女・子どものいる町に伝えよ。家の裏で躍らせなさい。女・子ども14、15才未満なら今までどおり勝手次第とする。

最初の「以上」は以下の間違いではないかと最初考えたが、それでは付帯の今までどおりと付帯する必要が無くなる。そこで「今までどおり」とは何なのかを探したところ、先に引用した享保七年の町触に糸口があった。

「盆中町々にて子ども躍りの儀、常々の衣類にて、町内表に限り躍り候様、年々申し付け候通り」

 規制の厳しかった頃でも子どもによる踊りは表通りで踊って良かったというのだ。可愛らしくて心を和ませたのだろう。

というわけで、付帯部分、女・子ども14、15才未満というのは男女13才以下の子ども躍りは表で踊っていいよ、と解せる。当時はペドフィリアなどという観念は無かったと思われる。

一方で踊りの遠慮を勧められた者たちも当時の恋情の在り方を考慮すると見えてきた。すなわち、「女と子ども14、15才以上の者」とは若い女と元服前の青少年のことだ。若い女の踊りが本人の意思に関わりなく扇情的であったであろうことは想像に難くない。加えて往時は男色を好む者たちにとって青少年の踊りも十分に扇情的だったのだろう。宗春本人がどうだったか定かではないが、衆道を禁止したわけではないことを付言しておく。生産性などと無粋なことを言うはずがない。恋愛も踊りもno reason。それは生が勢いよく燃えて輝く瞬間だ。