尾州、公方に似たり

◎宗春を公方に推す落書
 学術論文から小説までいろいろな宗春関連の著作で、吉宗と張り合った宗春が庶民に人気があった、として引用される落書だ。かくいう筆者も使わせてもらった。良くできていて面白いのだ。

天下、町人に似たり。
尾州、公方に似たり。
水戸、武士に似たり。
紀州、乞食に似たり。

 吉宗は米の相場に手を突っ込むから商人に似ていて、鷹揚に規制をなくした宗春は将軍の器量がある。水戸は武士に似ている。藩札を使って借金する紀州は乞食に似ている、という。町人、乞食に擬せられた将軍と紀州は堪らないだろうが、武士に「似たり」というのも皮肉になっている。ただ一人、尾州=宗春だけ評価が高い。

 これは、似ているものを挙げ連ねた似たり寄ったりという落書だという。落書とは落とし文ともいい、公然と批判できないから道に落として町の噂にして世論を作ろうという目的がある。今ならBBSにあたるだろう。ところがこの落書の載る史料が見当たらない。

◎レファレンス対応比較
 「元文世説雑録」「享保世話」「続談海」を探しても載っていないので、他の文献を公立図書館で教えてもらうことにした。以下、各図書館レファレンスの対応。
・東京都立図書館:東京に関係がない、と門前払いだった。天下とは徳川将軍のことなのに…。
・岐阜県図書館:他の史料をあげ、一応見たが見当たらず。
・愛知県図書館:かなり時間がかかったが見当たらず。なかったという結果は立派な成果だ。調査の労力を想うと感謝があるのみ。以下に転載する。

◎愛知県図書館からの回答
 回答が遅くなり申し訳ありません。
 メールフォームでお問い合わせいただいた件について、調査した結果は下記のとおりです。
 
 ご質問の「天下、町人に似たり。尾州、公方に似たり。水戸、武士に似たり。紀州、乞食に似たり。」という落書ですが、資料1の辞典及び江戸時代の落書・落首等を収集した資料2には収録されておらず、資料4~7のような落書について書かれたものでも取り上げられていませんでした(この他に資料20等がありますが、当館では未所蔵のため確認できていません)。
 また、この時代(享保~元文頃)の江戸の市井の巷談、あるいは各地の異聞雑説を編集したもので、狂歌や落書等も多数拾われている(大半は資料2に収録されているようですが)資料8~10や、江戸の市井の出来事が纏められている資料10等も念の為に確認しましたがやはり見つかりませんでした。
そこで、この落書を引用している文献があれば出典の情報があるのではないかと、資料11~19等、この時代及び徳川吉宗、徳川宗春についての資料を確認してみましたが、この落書の引用はありませんでした。これらの資料では、同じ資料の中でも落書の引用には出典のあるものとないものが混在しており、似たものとして「公方様は乞食に似たり、尾張は天下に似たり」という落書の紹介は見つかりましたが(資料11)、出典はありませんでした。なお、同時代の他の落書類の出典としてよく出ていたものの中に資料8~9がありましたが、それ以上に資料2からという引用も多いようでした。
 その他、この落書はインターネット上でも徳川宗春についての記事等でよく引用されているようですが、出典を掲載しているところは見当たりませんでした。

資料1『落首辞典』鈴木棠三/編(東京堂出版1982.9)
資料2『江戸時代落書類聚上巻』、『〃中巻』、『〃下巻』矢島隆教/編、鈴木棠三、岡田哲/校訂(東京堂出版1984.5)B917/ヤ/1-1~3(享保~元文の頃のものは主に上巻に収録)
※大正4年に書かれたものの翻刻。元の本はWEB上で公開されています。
「江戸時代落書類聚」惣目録、巻1~14、16~36巻(1915)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608441
「江戸時代落書類聚残編. 巻1~5」(1915)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607331
資料3『江戸第7巻詩歌・随筆編』大久保利謙/編輯(立体社1982)p.385-422矢島隆教「落書類聚」(大正時代の雑誌の復刻より。落首中心に一部連載したもの)
資料4『落書日本史』紀田順一郎/著(三一書房1967)
資料5『日本人の諷刺精神落書とその時代背景』紀田順一郎/著(蝸牛社1980.12)(資料4の増訂新版)
資料6『東京の歴史』樋口清之/著(弥生書房1961)p.51~63「落書・落首」
資料7『巷談江戸と東京3』樋口清之/[著](芳賀書店1976)p.160~168「落書・落首」
資料8『日本随筆大成続別巻5(近世風俗見聞集5)』森銑三、北川博邦/監修(吉川弘文館1982.6)p.329~444「享保世話」
資料9『日本随筆大成続別巻1(近世風俗見聞集1)』森銑三、北川博邦/監修(吉川弘文館1982.6)p.69~360「元文世説雑録」
資料10『定本武江年表上』、『〃中』、『〃下』[斎藤月岑/著]、今井金吾/校訂(筑摩書房2003.10、2003.12、2004.2)『下』内「索引」p.312落書
資料11『吉宗と享保の改革』(教養の日本史)大石学/著(東京堂出版1995.9)
資料12『徳川吉宗と江戸の改革』大石慎三郎/[著](講談社1995.9)
資料13『規制緩和に挑んだ「名君」徳川宗春の生涯』大石学/編(小学館1996.11)
資料14『徳川宗春<江戸>を超えた先見力』北川宥智/著(風媒社2013.12)
資料15『徳川宗春』(新装改訂版)矢頭純/著(海越出版社1994.4)
資料16『近世名古屋享元絵巻の世界』林董一/編(清文堂出版2007.7)
資料17『『ゆめのあと』諸本考』安田文吉/著(名古屋市教育委員会1978.3)
資料18『新修名古屋市史第3巻』新修名古屋市史編集委員会/編集(名古屋市1999.3)p.205~280「第四章「享元絵巻」の世界」
資料19『名古屋叢書[正編]索引』、『〃続編索引』、『〃3編総目録・索引』名古屋市蓬左文庫/編集(名古屋市教育委員会1978.1、1972.3、1990)
資料20『落首がえぐる江戸の世相』秋道博一/著(文芸社2002.4)所蔵なし

 お待たせしてしまった上に、出典が判明せず申し訳ありません。
 以上、よろしくお願いいたします。

◎海音寺潮五郎蔵書
 Googleで「天下、町人に似たり」を検索すると「宗春行状記」「日本名城伝」など海音寺潮五郎作品が上位にある。小説「吉宗と宗春」にもこの落書は登場する。そこで氏の出身地の鹿児島県図書館にも問い合わせてみた。
 すると、海音寺潮五郎氏から寄贈された江戸時代関連の蔵書リストが送られてきた。一々調べられないのでそちらで調べてくれ、ということだろう。氏の死後に刊行されたものもあるので逐次増やされているのかもしれない。現在、鹿児島県図書館には海音寺潮五郎コーナーがあり、氏の蔵書の一部が展示されているようだが、蔵書リストは公開されていないようだ。例の落書の出典を探る上でこのリストは一応役立ったから、海音寺潮五郎研究者のためにもリスト(PDF)は下の画像にリンクしておく。

海音寺潮五郎蔵書リストpdf

◎三田村鳶魚作品は参考書
 海音寺氏が参考にしたのはリストにある「徳川の家督争ひ」の「楯をついた宗春卿」だと思われる。三田村氏もやはり出典を記していない。
 三田村氏は、しっかりと年号を明記しているにもかかわらず都合で時間軸を捻じ曲げている。例えば、安財数馬による吉宗暗殺未遂の顛末がそうだ。以下に順に抜き書きする。

「継友の御小姓であつた安財数馬という者がありました」
「継友は…享保十五年十一月に亡くなつてしまひました。ところがその亡くなつたあとで、御小姓の安財数馬が御鉄砲を一挺盗み出して脱藩した」
「八代将軍の日光御社参といふのは、享保十三年四月十三日に江戸を立つて…」
「松崎山といふ山なのですが、その中に数馬が潜伏して居りました」

 数馬はタイムマシンを使って過去に戻ったのだろうか?
 尾張家中には安財という家はない。徳川実紀にも狙撃の記録もない。全くの作り話だ。
 史料の裏付けのない寄せ集めの奇人宗春を伝えた面白おかしい読み物になっているのだが、そこには残念ながら人間宗春は描かれていない。ただ、噂話の羅列で常識では理解できない奇異な殿さま像があるだけだ。この狙撃事件をはじめ多くのネタを三田村本に拠っている海音寺氏の「吉宗と宗春」も理解不能な奇異な宗春像を再生産となっている。(さすがに年の矛盾には気付いたようで継友の頃の出来事として書かれている)
 放蕩を尽くして将軍の命を狙い、吉宗との闘いに敗れて蟄居を喰らった馬鹿者という宗春像は、勝者側の侍の酒飲話を集めた夜話とか燭談といった面白おかしく尾鰭を付けた噂話によるところが多いのだろう。宗春が著したことが確かな「温知政要」を読めば、命を狙うわけがないことはすぐに分かる。
 「宗春躍如」の参考文献リストに三田村鳶魚『江戸ばなし』第一巻とあるのは冒頭の落書を引用しているからだ。筆者としては、あくまでも史料を元に宗春の奇異に見えた振舞いの理由に迫ったつもりだ。果たしてそこには現代人なら理解可能な一本筋の通った人間宗春が実像があった。

宗春の治政は失敗だったのか?

◎新政権は前政権の否定から始める

 変革を掲げた前政権は新政権により変革されることとなる。韓国はほぼ漏れなく、最近ではマレーシアやアメリカの変革はドラスティックだ。これに気付いた政権側は、変革を続けます、と主張するから厄介だ。かくして政治家は異口同音に変革を訴える。蓋し変革は民主主義の宿命的キーワードだ。ただし、変革が常に良いものとは限らず、我々は見極める目を持たねばならない。それを培うには自らの経験を含めた歴史に学ぶしかない。

 幕府と尾張家臣の信任を得て藩主となった宗勝もやはり前任者の否定から始めた。

◎宗勝入部後、初の町触

 元文四年五月四日、新藩主徳川宗勝が名古屋城に入ると、同月下旬に奉行所から次のような町触が発出された。ここでは要旨を簡潔に記す。番号は筆者が付した。なお、原文は『名古屋叢書第三巻 法制編(2)』に採録されている。

1.         町人は諸事簡略を旨とし派手にするな。

2.         家の構えは分限より軽く造れ。

3.         衣類は男女ともに美麗であることは好ましくない。古いものを厭わず粗末な服を着ること。

4.         買い占めで値段を吊り上げるな。

5.         婚礼の諸道具・衣類・祝儀の宴も質素にせよ。

6.         贈答は近縁の者以外にはするな。

7.         分限を越えた法要をするな。

8.         分限を越えた寺社への寄進をするな。

9.         家族でない女を家に置くな。

10.     他国から来た座頭・瞽女・比丘尼や奇異な振る舞いをするものを泊めるな。

11.     町人は武士に対し無礼のないようにせよ。特に売子・手代・下人は不埒者が多い。

12.     奉行所は法に従って手心を一切加えない。

 総じて質素倹約に努めよと言っている。9は売春の防止の意図だろうが、10と併せてみると社会的弱者を締め付けて排除するものだ。11は興味深い。売子・手代・下人が武士に馴れ馴れしく話しかけることが宗春の治政下では許されていたのだろう。他にも「分限」の文字が見え、身分制の引き締めが改革の要点だ。

◎人権を尊重した治政

 この触れを逆読みすると宗春治政の頃の町の様子が見て取れるのではないか。

 購買力があるから小細工を弄することなく物価は上がる。儲けた金で衣裳や住居を飾り、知り合いも招いて冠婚葬祭を派手に行う。寺社への寄進は寺社地に集まる恵まれない者の糊口を凌(しの)いだことだろう。旅芸人に慈悲を施す一方で武士も人として対等に見る。奉行所は杓子定規とならず情状を酌む。奇異な者らに対して好奇心を持ち、慈しみに溢れ、金が循環し、諸共に世を愉しむ姿。――これぞまさしく宗春の目指した「仁」に基づく血の通った政治ではないか。

 これが失政とは筆者は思わない。

宗春治世下を描いた享元絵巻より

宗春を追い落とした家臣たち

◎不都合な真実は幕府の日記にあった

 PKO活動で当該エリアでの戦闘の有無が国会で議論された際、自衛隊の日記を破棄したという耳を疑う言葉があった。結局はデータとして残っていたわけだが、国が行っている活動の記録がPKOやりました、だけで済むわけはない。現場の記録を軽視している。事件は現場で起こっているのだ。

 後に残って都合の悪いものを破棄するのは、犯罪者のみならず、時々の権力者の常だ。だから後の世に意図的に残された史料には疑いの目を向けること(史料批判)は研究者の常道だ。歴史捜査というテレビ番組があるが、証拠の確度を見極めつつ推理する過程を鑑みれば、なるほど歴史研究は犯罪捜査に似ている。

 徳川幕府の正史である「徳川実紀」になく、尾張の正史にも残っていないが、徳川実紀が参考にしたとされる幕府の日記「柳営日次記」に興味深い記事があった。宗春が蟄居となった元文四年正月、尾張家を相続した徳川但馬守(宗勝)が家臣を引き連れて二十八日に御礼の登城をした記録だ。

 (国会図書館デジタルコレクションより)

 前主君が謹慎となって十五日後に新しい主君と共に御礼に登城した家老竹腰志摩守以下十一名の尾張家臣が記されている。

 家中の首謀者が家老の竹腰正武であったことは、正武の事績を称揚する「尾張大夫義忠府君行状」に記され、ここでも成瀬隼人正を押さえて筆頭となっていることからもほぼ間違いのないことだろう。その首謀者に引き連れられて時期将軍に御目見えしたのだから宗春を追い落とした者たちと言えよう。ここには年寄だった星野織部や成瀬大膳の名はない。

 この中で筆者が小説「宗春躍如」で取り上げたのは用人(柳営日次記では供番頭)の横井孫右衛門、星野八左衛門、遠山大膳の三名だ。以下に遡及的に関係性を洗い出してみる。

 

◎明暗を分けた小姓トリオ

 享保十七年二月十三日、同時に小姓として召出された遠山百太郎(大膳)、千賀茂兵衛、小笠原斎宮の三名。歳の近かったであろう彼らのその後は三者三様だった。

 斎宮は、先のブログで書いた小山主膳事件に連座して享保二十年に致仕。

 宗春隠居時も小姓のままだった茂兵衛は宗春に付き添い、その十四年後の宝暦三年に小納戸として再度召し抱えられた。

 元文二年に小姓から用人に転じた遠山大膳は、宗春蟄居後も昇進を続け、宝暦十一年、年寄、その後従五位下伊豆守の士大夫にまで昇り詰めた。結果としてただ一人、上手く主君を乗り換えたわけだ。

 

◎孫右衛門は俳人横井也有(やゆう)

(栗原信充/画、国会図書館デジタルコレクションより)

 日付は横井孫右衛門也有の没した日だ。「ひるがほやとちらの露もまにあわす」すなわち、昼顔は朝露も夜露も受けることができず間の悪いものだ、と間の悪さを茶化している。実は露に濡れて品を作る朝顔や夕顔でなく、真っ当にお天道様の下に咲く昼顔に共感を持っているのではなかろうか。

 のちの時代に描かれたこの肖像画や「鶉衣」などの軽妙洒脱な俳文からは、滑稽な好々爺の雰囲気が漂うが、後に大番頭、寺社奉行まで勤めた有能な藩士名門横井藤瀬家の惣領だ。

 「稿本藩士名寄」の同年の記事は

元文四年未四月十一日 御帰国ニ付御供ニ而登城於御黒書院公方様大納言様江御目見巻物二拝領

これ以前の正月二十八日の御目見えを隠蔽している。宗春蟄居と同月に江戸城に登城し大納言家重に御目見えしたことを記録に残すのは憚られたわけだ。やはり、宗春追い落としの功労者と見られたくなかったからだろう。

 

◎星野八左衛門は織部の実兄

 この御目見えの事実を包み隠さず堂々と自らの経歴として藩に提出した者が一人だけいた。星野八左衛門――宗春の寵臣織部の実兄だ。八左衛門は逆に宗春追い落としの功労者と見られたかったのだろう。

元文四年未正月廿八日 御相續御礼御登城之節 御供ニテ御城江罷出太刀銀馬代紗綾弐巻献上奉拝 将軍吉宗公 亜相家重公

 吉宗も居たとする部分以外は紗綾の巻数まで一致する。

 八左衛門はこれ以前に、ある使命を与えられた。上記と同じく「稿本藩士名寄」から引用する。

元文二巳九月十五日 此度民部様御産之為御用事江戸表江被差遣候間 御附人をも兼勤候様ニ可相心得旨於御前御直被仰付

 出産が近づいた宗春の側室の民部の付け人となれ、と直接宗春から命じられた。

 嫡子を亡くした宗春は、跡継ぎの無事の誕生を願って織部の兄という血縁を信頼したのだろう。ただし、諸大名からの嘉儀の使者を取り仕切る実務となると八左衛門では頼りないと宗春は考えたようで、すぐさま別の用人を添えたことが次の史料に見える。

 以下は、「稿本藩士名寄」の横井孫右衛門の項。

元文二巳十月三日 此度御出産之節 蟇目矢取之役相勤候様ニと被仰付

 同日 今度民部様御出産之節当御代初而之御儀 其上殿様御留守方之儀にも候 先達而星野八左衛門儀 右御用并御附人相兼相勤候様にと被仰付被遣事候間 何も一統ニ申合諸事御大切ニ御模通宜相勤候様被仰出

 蟇目矢取とは出産の際に魔除けに放たれる鏑矢を取る役目だ。それだけでなく八左衛門に協力するよう命じている。

 さらに、年寄に引き上げた横井豊後をも江戸へ向かわせた。彼らは全て宗春が信頼した者たちだと考えられる。

 ここまで念を入れるということは、逆から見れば江戸詰の家老竹腰正武を疑っていたことをうかがわせる。奇異な振舞いで幕府と対立する宗春の隠居を望む声が宗春にも聞こえてきたのだろう。家臣の間での対立が深まっていたようだ。

 

◎加藤清四郎へのお咎め

 八左衛門に命が下ったよりさらに九日前、加藤清四郎、喜四郎兄弟が蟄居となった。今まで誰も指摘していないがこのお咎めには継嗣をめぐる藩内の軋轢を静める意味があったと推測する。

 「士林泝洄」から蟄居前後の記事と共に引用する。

加藤清四郎

享保十六年亥五月廿二日 附属于國丸主為御書院番頭

元文二年巳九月六日 有故公収食邑賜俸七十六石蟄居

 四年未九月廿一日 返賜食邑八百石為寄合

 

加藤喜四郎

享保五年子八月廿五日 被召出新御番賜俸

元文二年巳九月六日 有故公収俸蟄居

四未九月廿一日 為御馬廻賜俸

 

 蟄居は「故あって」と理由は明示していない。当時の状況から考えてみる。

 清四郎は宗春の嫡男国丸の書院番頭だったが国丸は夭逝してしまった。その傅役として責任をとらず、知行の返上を申しでることもなく今日までのうのうと禄を食んでいる。来る九月九日は国丸の三回忌だ。そして民部の出産が近い。罰を与えて生まれる子の傅役の戒めとしなければならない、と宗春の寛容な施政方針への批判の高まりが宗春側近からもあったのだろう。宗春は側近の意見を無視もできず遅ればせながら加藤兄弟を咎めたのだろう。食い扶持の七十六石を与えたのは宗春からの慰謝料だと推測できよう。兄弟とも宗春が蟄居となった元文四年に揃って許されていることからも宗春側近が望んだ処罰だったのだろう。

 この御咎めの後の出産立合いの命である。跡継ぎの無事な出生と扶育がなされなければ禄を減らされることが示され、江戸へ派遣された者たちの重圧は高まったことだろう。

 側近たちの期待の中、十一月、男児が無事誕生し龍治代と名付けられた。待望の宗春の世継ぎだったがその年のうちに夭逝してしまった。

 派遣された者たちは御三家の嫡男誕生を祝う使者に溢れる市ケ谷邸で昂揚感を味わい、翌月に数多の弔問の使者に応対して多忙な年の瀬となったことだろう。

 

◎使者の結束

 彼らは国元には帰らなかった。命には側室民部の付け人として御用を勤めよとあるから三月の宗春の参府までは留まらなくてはならない。苦難に直面し使者の結束が高まった。若き年寄の横井豊後と同門の孫右衛門、孫右衛門と星野八左衛門、さらに彼らを束ねたのは家老竹腰正武だったと筆者は推測する。正武は江戸詰となって丸二年経ち、将軍や幕閣との繋がりに自信を深めていたことだろう。「主君に失政あれば押込もやむなし」との言質を取っていたものと思われる。押込とは主君を幽閉して政治権力を剥奪するクーデターのことだ。

 それは、早くも五月末日に実行された。「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏が指摘するように「徳川実紀」での宗春の記載は五月二十六日が最後で九月十日まで見られない。江戸藩邸で宗春が幽閉されたのだ。実力行使の際、寵臣織部を抑えたのは兄八左衛門であっただろうか。名古屋では六月九日、宗春の参府と入れ替わりで帰国していた横井豊後から旧制に復するよう触れが回ったことは「遊女濃安都」はじめ多くの史料に見える。

 信頼して役を与えて派遣した者たちが皮肉にもクーデターで重要な役回りをすることになってしまった。

 

◎「鶉衣」を史料として読む

 横井孫右衛門こと也有が著した「鶉衣」の元文三年に書かれた二句を挙げる。

 俳文は風流を専らとするから生々しい政争がそのまま書かれるわけではないことを予めことわっておきたい。比喩をどう解釈するのかが肝要だと筆者は考えている。

 

名徳利説(とくりになづくるのせつ)

題の下に「応星野氏需(ほしのしのもとめにおうじて)」「元文三年冬」とある。押込が解けて宗春が再出勤し数ヶ月後の作となる。

 俳文の内容は、徳利を持参した星野氏に也有が銘を求められ、その名を「此童」とした意味を語る。

 内容に入る前に筆者の見立てを記しておきたい。星野氏は八左衛門。徳利は織部を表しているのだ。

 まず、備前焼の六升徳利は銚子と違って注ぎ口がどちらへも向かず空に向かっており「いづれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそなふなるべし」と不偏であることを褒めている。

 次に、竹を愛した王子猷(おうしゆう)の故事をひいて星野氏の膝下にまつわっていた徳利を「かの此君の名の古きを尋ねて『此童』とよばん」と命名する。

 此君は一般には竹のことだ。酒徳利が身近にあることを「膝下にまつわる」とするのは無理のある表現で後の「童」と考え併せると也有は徳利に人を見ている。織部の古き名は「此面」という。

 句に至る最後の部分はそのまま引用する。 

 世の近侍の童は、立居に尻のかろきをほむれども、此童の奉公振は、ただいつまでも、いつまで草の根づよく、尻の重からむこそ、主人の心には叶ふなるべけれ。

  近頃の小姓は動きの良い者が褒められるが、本来はこの者のいつまでも根強く、尻の重い奉公こそが主人の意に叶うものなのだ。

 遠山大膳が小姓から転出し、押込以降多くの側近が離れていくが、織部はいつまでも頑なに宗春に従ったことを也有は褒めていると取れる。

 

月に雪に花に徳利の四方面

 

 一般には、何にでも合う四面徳利であるよ、と解釈されている。史料として見る筆者の解釈は大いに異なる。「月に雪に花に」は白居易の「雪月花の時、最も君を憶う」を意識して「忠君」を表す。四方面は四面楚歌を意味しているのだ。備前の六升も入る大徳利に四面のものなどあるはすがない。也有は家中で四面楚歌でも不偏に主君に仕える織部をそのままにしておけと八左衛門に言ったのだ。

 

 次にこれに先立つ「元文戊午(三年)之秋」と付され「手水鉢銘」と題された部分。おそらく宗春が押込に遭っている最中と思われる。

 これも手水鉢の銘を友人の堀田六林から求められた際に「時々新」と名付けたことについてかかれている。これも最後の部分を引用する。

世はよし五月雨のはれみくもりみ、蹌踉(そうろう)の水は濁るとも、ひとり此水の底清からましかば、纓(えい)を洗ひ耳をすゝぎて、長く閑居の契をもむすべとぞ。

 

汲みかへてもとの月あり手水鉢

 

 たとえ世の中が、梅雨時のように晴れたり曇ったりして、蹌踉の水のように濁ったとしても、この手水鉢の底だけは清いから冠の紐を洗い、汚れたことを聞いた耳を濯いで隠居暮らしの縁とするがよい。

 この俳文には中国の二つの古典からの引用がある。

 ひとつは、漁父の辞。潔癖な屈原に漁師は蹌踉川の水が清ければ冠の紐を洗えばよいし、濁っていれば足を洗えばいいじゃないか、と時流に合わせ妥協することをといたもの。

 もうひとつは、「史記正義」等にある故事から、帝位を譲ると聞いて「汚らわしいことを聞いた」と川で耳を濯いで隠遁した許由の話。

 俳諧の心得である不易流行を水の在り方で表現し、水に関わる故事を交えて六林の清しい閑居を羨んでいるようだ。時の尾張藩政は目まぐるしく事態が転変し、用人を勤めていると汚らわしいことも多く聞いたことだろう。一方、句には藩主が変わったとしても、いや藩主を変えても代々の奉公は変わらないという自信がみなぎっているように見える。

 因みに「柳営日次記」に見えるもう一人の用人富永定右衛門は六林の実兄である。

春日野の正体

◎吉原の遊女で藩士の子

 数多い宗春の側室の中で「おはる」は異彩を放つ。吉原太夫で親が尾張藩士だというのだ。

 金府紀較抄より宗春失脚後の側室の処遇の記事を引用する。(字下げ・改行は筆者)

 一 宗春公 御女中之内御出頭之分大勢有之候内 

江戸に而

海津殿

民部殿 此御両人御子在り

いつみとの

尾州に而は

左近殿

相模との

おはるとの なとと申して一二を争う衆に而候

 

 出頭は主君に寵愛を受けた者をさす。多くの女中の内、特に寵愛を受けたのがこの六人で、おはるは尾州に居住していたとする。

 同書は「おはる」について次のように記す。

 

おはるとのは元は吉原太夫に而 春日野と申候由 是は親鈴木庄兵衛 御預け御下屋敷東辰巳町之内屋敷へ被引越候

 

 「おはる」殿は吉原の太夫で源氏名を春日野といい、親である鈴木庄兵衛に御預けとなり下屋敷の東の辰巳町の屋敷へ引っ越した。

 鈴木氏の屋敷は現在の名古屋市東区の千郷町交差点の北角にあたる。

 藩士がどういうわけで娘を吉原に出したのか?それほど生活が苦しかったのか?と最初は疑問に思った。

 

◎異例の女郎

 春日野という女郎は吉原に実在したのだろうか?幸いなことに吉原では毎年、見世ごとのメンバー表が発行されていた。

 以下、『日本書誌学大系』72 吉原細見年表(青裳堂書店)の「付論」から引用する。

 享保十八年細見「浮舟草」角町右側「すがたゑびや惣十郎」見世に

 ツキ出し

 かすがの

  禿 こまつ

    小さヽ

 かすがのは、見世の三段目に書いてあるから新人と思われる。

 「突き出し」は多義で①新造、引込などを経て一人前の遊女となること。②禿を経ないでいきなり遊女となった者。著者の見解は①

 禿(かむろ)とはお付きの少女で高級遊女(当時は太夫)に見習いとして付くのが一般的であり、突き出しの春日野に付くのは異例。

  次に同著が指摘する享保二十年発行の吉原細見「志家位名見」を引用する。

(写真は『遊女評判記集(下)』勉誠社より)

上上吉 春日野 角丁 すかたえひや宗十郎内

▲大ふり袖ニてよび出しとならせ給ふハ定めて能(よい)御客御の御さ(座)候か 御名のかすがのハ春殿とやらん とかく御ぜんせい(全盛)日ヽ月ヽの御ばんぜう(万丈) 是ぞゑびやの白ねづみ 先ハ姉女郎衆より先に置まス

 

 上上吉:遊女の格、最上級

 角丁:角町。吉原五町の一つ。

 すかたえひや:姿海老屋。海老屋の屋号は他にもあったから紋で区別した。

  大振袖の生娘で呼出となられたのは、よほど良い御客がいらしたか。名の春日野は春殿の春とやら。とにかく客が多く日々意気盛ん。これぞ海老屋の(大黒様を招く)白鼠。まずは姉女郎より先に書いて置きます。

 先に挙げた金府紀較抄の記事と符合し、まさにこの「春殿」が宗春と比定できる。上上吉の上は比翼紋だろうか。そとの囲みが宗春独自の三つ葉葵紋と似ている。

 余談だが、この宗春葵は一般には「藤縁の葵紋(藤輪之御紋)」と呼ばれるそうだが、三つ葉と繋がっているわけだからこれはやはり葵の花とすべきだろう。

 

 とはいえ、この細見の作者は春殿が宗春だと知って書いたのだろうか?筆者(大野)はそうは思わない。吉原細見は、後年に書かれる回想録や匿名の書き手による落書とは性格が異なり、末尾には出版者が明記して版行され広く売られるものだ。御三家と知っていて書いたと判れば不敬ともなり相応の罪を覚悟しなければならない。藪をつついて蛇を出すようなまねはしなかったと思われる。この細見が出版された享保二十年頃には、まだ春殿の素性は分かっておらず、正体不明の大尽と思われていたのではないか。宗春は町人に身を窶(やつ)して吉原を楽しんでいたのだ。

 変身願望は古今東西かわらない。「王子と乞食」ではないが、本当のセレブは庶民の暮らしを肌で体験したいものなのだろう。殿様のままでは周りが忖度して真心を通じ合えない。一方、遊女もいわば自作自演の女優で、柳沢淇園の「ひとりね」にもあるようにわっちは世が世ならどこぞの姫様で……というように身の上を作って語る。そんな納得ずくの騙し合いの中で、たまさかきらりと光る真実が見える。現代の恋愛と何ら変わらない恋の駆け引きだ。

 

◎結婚は錦の御旗?

 ここで遊郭通いをしていた宗春の弁護をしておきたい。

 恋をするのに何も遊郭へ行く必要はない、と現代人は思うだろうが、当時は自由な恋愛が許される世の中ではなかった。町で娘に声をかけようものなら犯罪者だ。

 そうであっても古今性風俗に従事する者や客を白い目で見る者は多いだろう。自らは真っ当に結婚して一夫一婦である、と。

 先日のNHKBS「天国からのお客様」で立川談志氏ロボットは警句を吐いた。「結婚なんてもんは、長期契約売春だ」

 さらに現法政大学総長田中優子氏は「江戸の恋」(集英社新書)の中で現代の恋愛を次のように批判する。

 「結婚は良い条件で生活するためのものであり、性はその道具であると、性を釣り餌にする考え方は、一方で娼婦を軽蔑しながら、もう一方で性を生活の道具にするという意味で娼婦と同じなのだが、『結婚』を隠れ蓑にするので自分はそれに気づかないのである。いやな生き方だ。」「生きるために必要がなければ結婚はしない方がいい。生きるためにする結婚は『身を寄せ合って生きていく』ということ。貧しいけれど幸福な記憶は、その『身を寄せ合っている』という言葉で言い尽くせるような気がする。必要のない結婚は『好きだ』『愛している』という理由づけばかりになり、江戸の言葉で言うと『浮気結婚』になった。」

 独立して生計を立てることができれば結婚という制度には拘らなくていい。結婚は貧しい者のためにある、というご意見とみた。

 ここで終わっては結婚を隠れ蓑とする人たちに救いがないから福音を一つ。思うに最初はどうであれ、逆境になっても寄り添う気持ちが芽生えれば、きっとそれで良いということなのだ。イエスキリストに従った罪深き女(マグダラのマリア)は守護聖人となったのだから。

 ◎吉原の女郎を身請けした大名

 浮気結婚を許さなかった江戸の社会。大名でさえ女郎を身請けすれば非難を覚悟せねばならない。

 三浦屋の高尾太夫を身請けしたと伝わる三代仙台藩主伊達綱宗は、万治三年、隠居を強いられた。

 宗春謹慎後となるが、寛保元年、姫路藩主榊原政岑は、吉原の三浦屋の高尾太夫を身請けし、蟄居となった。

 安芸広島藩主浅野吉長は、吉原の遊女を身請けしようとしたところ、正室が腹を切って諫死した。吉長は身請けを思い留まり、幕府からのお咎めを回避できたと伝わる。因みに宗春の謹慎を言い渡しに来た使者の一人は吉長だ。

 いずれも事の真偽は定かでないが、いつの頃からか世間に以下のような認識があったことを物語っているのではないか。

 そもそも吉原は参勤の武士の無聊を慰めるために家康が設置を赦した場所だから大名の吉原通いは大目に見る。だが、女郎の身請けは一線を越えた放蕩であり、大名は家中から譴責され幕府から謹慎を命じられても致し方ない。

 宗春もこのことは承知していたから一計を案じたのだと思う。

 

◎父を藩士とするウルトラ技

 春日野の父、庄兵衛は「士林泝洄続編」にあった。

元文二年巳十一月 乾御殿詰被召出賜俸四十石

 召されたのが元文になってからの新参者だ。翌年には息子の庄次郎が召される。

元文三年午三月 被召出為奥御番賜俸四十石

  宗春が春日野と見知ったのが享保二十年より前だから随分と後の召出しになる。しかも庄兵衛の父は系譜に無く、庄兵衛が初の尾張藩への出仕者だ。鈴木庄兵衛家は譜代の尾張藩士の家系ではなかった。つまり、藩士の娘と偶然吉原で知り合ったわけではなかった。

 問題は、側室として藩邸の奥へ入ったタイミングだ。吉原細見に春日野が登場するのは享保二十年までだからその後すぐに宗春が落籍したと考え、その縁者を尾張藩へ召出したとするのが一つの考え方だが、これでは家中と幕府からの譴責を覚悟せねばならない。

 春日野を細見には載せずとも妓楼に囲い者として居た可能性もある。筆者は春日野を側室に迎える前に父と弟を召出したのだと考える。

 吉原の女郎を身請けする場合、そのまま請けるより安上がりの方法がある。金儲けに執心する妓楼の亭主も親からの身請けの申し出には比較的少ない金子で手を打ったそうだ。これを親請けという。

 まさか御三家様が経済的理由からではなかろうが、宗春は親請けという制度にヒントを得たのではないだろうか。すなわち、既に藩士となった親に親請けさせた上で、改めて家臣から主君へ側室として勧め選入されるという方法だ。直近の身元は女郎ではなく藩士の娘となり、姑息ではあるが一応理屈は通る。女郎は年季が明ければ遊廓奉公という過去にとらわれずどこへでも嫁ぐことができるのだ。

 何が契機で押込となったかは定かではないが、「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏の説くように元文三年五月下旬、宗春は押込となった。国元では旧制に復する命がだされ、宗春は徳川実紀には九月になって再出勤となる。

 

千両箱盗難事件の意味

◎一顧だにされなかった事件

 尾張家市ケ谷上屋敷で起きた千両箱盗難という耳目を引く事件ながら、なぜかこれまでの研究、他の小説で全く触れられていない。このため一般にもほとんど知られていないので「宗春躍如」における記述すべてが創作だと思われないかと筆者は危惧する。史料からこの事件の存在を示し、事件の結果が尾張家中に及ぼした影響を考察する。

 

 「金府紀較抄」享保十九年

一 当四月下旬江戸市谷御屋敷に而 御金千両箱紛失之由に而 御小性衆小山主膳へ御不審懸り 七月上旬名古屋へ上り 上り屋江入被申て 一家一門へ難義懸り申候

 

 四月に千両箱が紛失して嫌疑が小姓の小山主膳にかかり、七月に名古屋の揚り屋送りとなり、親族に難儀がかかった、と伝える。ここでは「火付け」ではないし、庶民の「牢」ではなく身分ある科人を収監する「揚り屋」となっている。

 

後の時代に成立した「稿本藩士名寄」では、感情的で苛烈になっている。なお、括弧内は他の箇所から補った。

一 同十九寅五月 於江戸御科之品有之苗字御削(小助与改名)無宿小屋江入置候様ニと被仰出 無宿小屋江入 屋敷被召上諸色等相改差置候筈并諸色ハ御目付御小納戸立合改令封印右屋敷ニ指置番人附置

一 主膳娘并召仕之男女親類之内江引取指置候様ニと申渡有之

一 同年六月 右小助御金盗取其上御殿ニ火を付大罪至極重々不届ニ候仍之土器野ニ而火焙可申付候名古屋町中引渡之儀可申付由被仰出

 享保十九年五月、江戸で罪を犯したので苗字を削り(小助と名を改め)無宿小屋へ入れ置けと(宗春が)命じた。無宿小屋へ入れ屋敷が召し上げられ財産を差し置き、目付小納戸が立合いの下、封印させ、屋敷に番人を付け置いた。

 主膳の娘並びに召使の男女は親類の内へ引き取り差し置くようにと申し渡された。

 同年六月 小助(主膳のこと)御用金を盗み取り、そのうえ御殿に火をつける罪は極めて重い、土師野にての火あぶりを申し付け名古屋町中引き回しを申し付けるようんいと(宗春が)命じた。

 こちらは、「千両箱」はないが、御用金を盗み「放火」したとし、苗字を剥奪して無宿小屋に入れたとする。

 宗春の峻厳な命令が記されるが、このあと死刑執行の記述はない。そんな命令はもとから出なかったのだろう。同書は宗春が失脚し罪を赦されない頃に書かれたものだ。当ブログの冒頭から読んでいただければ宗春が人命を何よりも尊重したことは理解していただけるはずだ。そんな宗春が重用した主膳に死刑を命じるわけがない。一方で事件そのものは起きたのだろう。そして主膳に嫌疑がかかる状況があったのだろう。

 

◎小山主膳の背景

 藩主継友が直々に烏帽子親となった半元服が享保五年だったから享保十九年の主膳は三十歳前くらいか。宗春の代になってからも引き続き小姓で享保十七年から小納戸兼役となった。小納戸は藩主の髪を整えたり、食膳を供したりといいった役なので、藩主の身近に接する機会は格別に多い。

 小山家の家禄は千石。父は既に他界し、現当主は国用人の市兵衛。二男の主膳は小姓に召され、三男は他家へ養子に出された。典型的な三兄弟の配置といえる。

 召出されて間もない世間知らずならともかく、召出されて十三年も二代にわたり最側近の小姓として勤め、今は小納戸兼役という覚え目出度い主膳が御用金を盗み、火付けまでするとは考えにくい。

 嵌められた――謀略があったと筆者は推測する。誰が、何のために?

 

◎縁座による処罰

 事件の翌年、主膳は科人のまま死ぬ。

 

 「稿本藩士名寄」

一 享保二十卯二月十九日 牢死

一 同年三月 小助儀大罪之者之事候故存命ニ而罷在候得ハ火罪ニ被行筈候処令病死候儀候故此上御仕置ハ不被仰付

 

 大罪だから火あぶりとすべきところだが、病死したから、そうはしなかった、と言い訳がましい。

「金府紀較抄」では牢でなく上り屋で病死、月も次月となっているが、親類に及んだ影響を伝えている。

 

一 当三月 小山主膳上り屋に而病死に付 三月十九日右親類中半地に被仰付 叔父四千石織田周防守隠居家督弐千石被下 従兄弟千弐百石小笠原帯刀隠居弟へ六百石被下 叔父番廿石織田丹下隠居弐拾人扶持被下 妹聟七百石中川庄蔵へ四百石被下 寄合被仰付 従兄弟七百石土屋庄左衛門隠居弟へ三百石被下

 

 親類の家禄が半減され、多くは隠居、御役御免となった。妹聟という姻族、血縁で最も離れるのは四親等の従兄弟まで連座となった。その従兄弟の小笠原帯刀の家譜に母の記載が見つからないが、織田家から嫁いだものと考えられる。当主の年寄役が隠居となり、姉妹の嫁ぎ先に難儀をかける事となり織田家は面目を失った。

 

◎新参だった織田家

 織田家は言わずと知れた信長の子孫の名家だが、尾張徳川家中となったのは三代藩主綱誠の小姓として貞幹が召出されたのが最初だ。当初百石だった新参者は綱誠に用いられてあれよあれよという間に二千八百石の年寄の士大夫となった。子の長恒も継友によって年寄に引き上げられ、宗春代に士大夫となった。

 新参者が重用されては譜代の家臣は面白くなかっただろう。織田家二代が政務に長けていたかどうかは定かではないものの、歴代藩主との関わりの古い家柄よりも才を用いる風は、幕府では綱吉代から見えており、当代吉宗の足高の制で制度化されていた。尾張家でも同様の風潮が兆したものと思われる。

 この事件が謀略であったとしたら、結果からは家柄軽視の風潮に掣肘を加えるアンシャンレジームが目的だったと考えられないか。家柄重視の主張は、この事件の十三年後、藩主宗勝に献呈された「士林泝洄」に形となって表れた。御附家老の成瀬家を筆頭に尾張徳川家との関わりの古さで家臣団を階層分けし序列化している。百二十二巻中、織田氏は百十三巻目にようやく登場する。

一枚岩ではなかった吉宗政権

◎綱吉仁政の名残り

 結果からみて宗春と吉宗が対立したという視点で見ているとディテールが見えてこない。そもそも和を以て貴しとなす厩戸王以来の伝統で独裁者は日本には現れなかった、と書くと批判もあろうが、少なくとも宗春も吉宗も独裁者ではなかったようだ。吉宗は現実をしっかりと見据えたバランス感覚のある将軍だったと思われる。適材適所で向き不向きを見て使者を選択していたようだ。

 宗春代の尾張家(藩邸以外も含む)への使者を下の表にまとめた。

 当初は老中在任期間の長い松平乗邑が最高格の御使として訪問したが、いわゆる三ケ条の詰問の後は、松平輝貞が多く御使となった。輝貞は厳密には老中ではないが老中格で御意見番といったものだったと思われる。表中の老中を就任の古い順に書き並べる。数字は享保17年当時の年齢。

松平乗邑 47

酒井忠音 42

松平信祝 50

松平輝貞 68 (老中格)

黒田直邦 67 (西之丸)

因みに吉宗は49歳。使番の滝川元長は71歳。

 後に幕閣に加わった者の方が年上という逆転現象が起きている。

 滝川元長を含めて60歳以上の共通点は五代将軍綱吉に仕えていたことだ。輝貞は生類憐みの心を強く持ち続け、吉宗の方が鷹狩の獲物を与えることを控えたという。先の記事で書いたように直邦は荻生徂徠、太宰春台との交わり深い学者でもある沼田の名君の誉れ高い。

 三ケ条の詰問の後、使者の元長を清戸へ誘い懐柔し、嫡子萬五郎の節句祝いに輝貞が使者となり、その後の尾張家向きお定まりの使者となった。宗春の施政に理解を示す綱吉恩顧の者たち――筆者はここに綱吉も目指した仁政の名残りを見る。

 清戸へ誘われなかったもう一人の使者石河政朝は、尾張家老竹腰正武の実弟であり、後に町奉行となって乗邑の下で公事方御定書の編纂に携わることになる。

 

◎欝だった宗春

 表中、享保十七年の三ケ条の詰問後の宗春の病気について新たな知見がある。

『稿本藩士名寄』の大寄合野崎主税の項に興味深い記事がある。

享保十六年亥六月廿八日 御朦氣為御尋使被進候 上御礼使相勤候付有徳院様江御目見

 朦氣(鬱病)見舞いに使者が来て、その御礼の使いとなって吉宗に御目見えした。鬱病となったのは誰か?主語がないが「御」朦氣と敬ってあるから宗春以外には考えられない。ところが年が違う。享保十六年六月は宗春は国元に居り、そこに病気見舞いの使者が来たとは考えにくいから、後年提出した野崎家家譜の単純な年の誤記であろう。享保十七年の宗春の病は鬱病であった可能性が高い。

 

◎吉宗が宗春に急報

 元文元(享保二十一)年三月の参府直前の駅使による尋問はかなり重要な知らせであったと筆者は考えている。これに呼応するように宗春は道中で新地を一カ所に取り纏めることを令した。この令が三月十一日に名古屋に届いたことが「遊女濃安都」に記され、「尾藩世紀」では島田宿で発令したと特定している。さらに、参府着邸後、吉宗との対面の前に宗春は新地全廃の令を出した。

 つまり、このまま参府しては宗春にとって良くないことが起こることという忠告だったに違いない。令の内容から遡って想像すれば、名古屋の風俗紊乱への抜本的な対策がなされなければ藩主解任もやむなし、というものだったのであろう。幕府の正史たる「徳川実紀」にとられているわけだから、幕閣の誰かが勝手に伝えてものであるはずはなく、吉宗本人からの報せと考えるのが妥当だろう。宗春就任時に二人の間に伝書ホットラインがあったことは「月堂見聞記」にも書かれている。

 江戸詰になっていた竹腰正武が藩主押込に対する内諾を幕閣に求めていたと考えられないか。駅使による尋問は、その動きを知った吉宗が垂れた蜘蛛の糸だった。

 正武は参府した宗春に追い打ちをかけ、一カ所でも遊所を残すようでは手緩いと迫ったものと思われる。

 自ら許した遊所の廃止とそれに伴い職を失う新地の者らの行く末を想うと忍び難い辛さがあったろう。一方で吉宗の恩情を裏切るほど薄情な宗春でもなかった。

太宰春台コネクション

◎奇を好む儒者

 太宰春台は荻生徂徠の門下の博覧強記の儒学者だ。厳しく子弟の礼を求め大名の子弟にも謹厳であった。その説くところは軽やかだ。「今の世では金銀を手に入れる計をなすことが急務であり、それには商人のように売買することが一番近道である。領主が金を出して国の土産や貨物を全部買い取って他国で売るのが良い」と明らかに重商主義的な経済思想へ進展=転換している。

 一方、舞や笛にも秀でていた。京都で放浪中に辻氏から舞の免許状を貰っている。黒田直邦からもらった舞衣をもっていた。笙も吹くが横笛がもっとも得意で名手だった。(「太宰春台」 武部善人 吉川弘文館)

 

◎露見すれば間違いなく首が飛ぶ上書

 「恐れながら封亊を以って言上仕り候」という書き出しから「太宰純誠惶誠恐頓首々々死罪々々謹言」という上表の形式に基いた享保十八年の上書が伝わっている。太宰春台から前年に西之丸老中となった黒田直邦へ宛てたもので吉宗の失政を諫言すべしと訴えかける。直邦が腹の据わった人格者であったから良かったものの露見すれば死罪は確実だったろう。内容は極めて辛辣だ。この年の正月には江戸で初めての米屋の打ち壊しが起きていた。幕府の指示で大坂の米相場に介入していた高間伝兵衛宅が襲われたから状況は深刻だったから、春台も幕閣も真剣だった。

 米相場に介入して吉宗が「人民と利を争い候ては、いつとても民に勝候ことあたはず、却って民の怨心を引起し候」、上が利を求めるから家臣も天下万民の事より私利を優先するようになる。この際、「山王、神田以下諸社の神事を先規のごとく執行せしめ、遊女丁、見世物場を故のごとく許され、都て繁雑なる政令を一切に停止せられ候はば、万民欣喜仕」

 これは宗春の施政に倣えと言っているようにしか思えない。

 

◎尾張年寄との接点

 そもそも直邦は荻生徂徠門下で春台にも私淑していた。だからこのような上書も受け入れたのだった。

 宗春と徂徠学の接点については林由紀子氏の研究がある。(「徳川宗春の法律感と政策」『近世名古屋享元絵巻の世界』清文堂)氏が徂徠学との接点があったとする尾張藩士の中に鈴木明雅がいる。享保十四年従五位下朝散大夫になった時、春台から詩文を贈られるほど親しい間柄だった。

 尾張の知恵者として『趨庭雑話』は、次のようなエピソードを伝える。

 章善(宗春)公の時、覇府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 幕府老中から「木曽の木を使わせろ」と言われたところを明雅が「良いですよ。でも木を流して運ぶ木曽川はお貸しできない」と答えた。まるで一休頓智話。これが公式に言い渡された話だとは筆者(大野)は思わない。人々が返答に窮したという部分は盛ったところだ。思うに元は幕府老中となされた茶飲み話だったのだろう。明雅が冗談話を交わせる仲の幕府老中は前述の黒田直邦であったに違いない。

 

◎宗春シンパの老中

 さて、意を決した上書を受けた直邦は吉宗に諫言したのか?残念ながらそれは記録にないが、この後、禁止だったはずの豊後節が禁制の心中物を上演できたのは直邦の意見があったのではないかと筆者は思っている。禁制の心中物とは、名古屋発の「睦月連理の玉椿」のことだ。

 幕府の豊後節取締り方針の曲折は笠谷和比古氏の「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」(『日本研究』 国際日本文化研究センター紀要 第三三集、二〇〇六年)に詳しい。

 「吉宗と宗春が対立した」という硬直化した視点からでは幕府方針の曲折は説明できない。幕閣の中にも宗春の目指す仁政に理解を示す者もあった。筆者は黒田直邦以外にも居たと考えている。

入墨か、半剃りか

◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。

 オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。

 タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。

 

◎罪人の印に

 デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。

「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」

 十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。

 消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。

 

◎半剃りの刑

 元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。

「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」

 罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?

 

◎牢に入った小者を側近の物頭に

 宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。

 

112-112 浅田市右衛門

▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱

  金五両御扶持方二人分被下置

▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下

▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付

  御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下

▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付

  御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置

 

 主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。

 

▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り

  永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡

 

 梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……

 

▽ 同十六年四月 出牢被仰付

  千賀与五兵衛知行所江御指遣シ

 

 市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。

 そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。

 

▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出

  御切米拾三石御扶持方三人分被下置

▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付

  御切米廿七石二人扶持被下置

▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付

  御加増四拾石都合八拾石五人分被成下

▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭

  御小納戸兼役被仰付

  新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下

 

 昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。

 

◎時が経てば消える罰

 宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。

 「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。

 半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。

敢えて正室として迎えず 謎の美女阿薫

◎部屋住みは辛いよ

 尾張藩主の弟たちが最初に迎える妻は側室と相場は決まっている。なぜなら当主に万一のことがあれば御三家当主に相応しい正室を迎えなければならないからだ。宗春の兄の継友は藩主となってから摂家の近衛家の姫を迎えた。吉宗も紀州藩主となってから伏見宮の女王を正室に迎えている。紀州家は二代藩主光貞の正室も同じく伏見宮の女王だ。一方、尾張家三代の吉通の正室は摂家の九条家だった。御三家の序列では尾張が上なのに、正室の出自は逆転しているのだ。

 

◎女王の格上を娶る

 皇女しかない、と宗春は考えただろう。筆者は、享保十六年に適齢の皇女を探してみた。中御門天皇の第一皇女は、まだ十一歳。先代の東山天皇には存命の皇女なし。さらに一代遡ると仙洞御所の霊元上皇。するとただ一人独身の皇女が見つかった。しかも十八歳。二歳で婚約したが、翌年、相手の死去で破談になった――幼将軍家継の婚約者八十宮だ。親王宣下があって吉子内親王となっていた。宗春は尾張相続の前から意識していたのではなかろうか。娘の名は八百姫、八千姫という。

 

◎吉子は兄嫁の叔母

 宗春の兄の吉通の正室の瑞祥院(輔姫)は九条家から輿入れした。その母益子内親王は後西天皇の第十皇女で霊元天皇の猶子となって九条家に嫁いだ。吉子と姉妹ということになる。つまり、兄嫁である瑞祥院にとって吉子は叔母に当たる。九条家には吉通の娘の千が嫁いでいる。一度は徳川と縁づいた皇女でもあり十分に話を進められる素地はある。だが、歴史上、吉子内親王は享保十七年に出家するのだから、当初は悲恋として描こうと考えていた。宗春の側室を調べていた際、とあるウェブサイトで気付く前は……。

 

◎享保十七年十月の符合

 「尾張藩の殿さま列伝」作家の藤澤茂弘さんのサイトで宗春の側室阿薫(おくん)の和歌集があることを知った。阿薫が特別な側室だったことが分かり想像が膨らんでいった。今こうしてブログとしてウェブサイトに残しているのは、市井の研究者への還元のためだ。

 本人の死後に冷泉宗家、為村、為泰といった歌の上手の添削による四千二百首が編まれた「阿薫和歌集」は、鶴舞図書館河村文庫と蓬左文庫にある。

 河村文庫本の伊藤将親の後記。

宝泉院阿薫芳負禅定尼諱は華子和泉と称す猪

甘氏にして其先近江の人成りはじめ織田家につかへのち

豊臣の家臣と成り両家滅亡の後都に出て代々処士たり

父を宗貞といふ母は鈴木氏正徳五年乙未三月十六日に父

の家に生れ給ふ享保十七年壬子十月

章善院殿の殿内に入給ふ

尼公容儀すぐれて婦徳をおさめ小星の光おはす

公御国務の時より位遁れ給ふ後まで左右に侍りて

采蘩の助けまします

戴公殊に其労を賞し意を給ひ品秩およそ夫人の

礼に准じさせ給ふ

今の殿に成りても厚遇亦同じ

 

 阿薫の諱は華子、和泉。家は猪甘(いかい)氏、近江の出で織豊の家臣だったが後は都で代々浪人だった。父は宗貞、母は鈴木氏の出。正徳五年に生れ、享保十七年十月に宗春の側室となった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から隠居の後まで側にあり夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞でて正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇している。

 隠居後も側室の中でただ一人連れ添った特別な側室であったことを語っている。

 さらに注目すべきは奥に入った年月――享保十七年十月。これはまさに吉子が出家したとされる年月と符合するのだ。因みに吉子の生まれは正徳四年八月二十二日で阿薫は一つ下となる。

 

◎せめて御殿ぐらいは用意したい

 御三家に相応しい正室を迎えた!と天下に公言するわけにはいかない。大らかな万葉の頃「安見児得たり」と手放しで嫁取りを喜んだ鎌足とは状況が違う。正室とすれば出自を問われる。宗春は名を捨てて実をとったのだ。自ら希求していた体面を保つための、あるいは家格を上昇させるための婚姻を深く省みただろう。以降、宗春は正室を迎えようとはしなかった。

宗春の失政に数えられる一つに乾御殿がある。乾というから城から北西にあるのかと考えたが、適当な御殿地はなかった。おそらく場所は円頓寺の北、尾張の支藩高須家の屋敷地と考えられる。高須家は江戸住まいで領地である美濃高須に来ることがなく、名古屋に来ることもなかったから館はなかったものと思う。二之丸御殿や広大な下屋敷があるのに、なぜさらに御殿が必要だったのか?――位の高い女性を迎えるのに新御殿を建てるのは当時の常識だ。批判的な家臣は高須家を相続した義淳(後の宗勝)に注進したことだろう。理由を明らかにできない宗春の胸の内はいかばかりだったかと思い遣られる。

 果たしてこれを知っていた家臣はいなかったのだろうか?

 

◎儒者の暗号

 実際に縁組に動いたのは家臣だったはずだから知る者はいたはずだ。知っていて、伝えたいのだが、あからさまに伝えることができないとき、人はどのようにメッセージを残すのだろう。

 実はこの項を書き始めて改めて阿薫和歌集の序文を見ていた時にそれを見つけた。序文の作者は岡田挺之。またの名を新川、仙太郎という儒者で藩校明倫堂の教授を勤めた。

 同書のマイクロフィルムからの複写で状態が悪く、特に下の部分は所蔵印と重なって判読しづらいのでトリミングした。後記と同時にカラー写真で撮影させてもらえばよかったと後悔している。

 一行が十九文字に揃えて書いてある。岡田挺之の版行されたものは漢文でも一行の文字数が揃っていないものがある。とくに文末を示す「也」は、前行の字数が多くなっても行末に押し込めている。また、漢文で序文に残すのは作者の出自や業績など――ちょうど前述の後記のような内容が常套と思うのだが、この序文は雰囲気が異なる。和歌三神に数えられる衣通姫(そとおりひめ)と六歌仙の小野小町とを挙げ女流歌人から書き出している。出自は後記よりあっさりと猪飼氏、諱は華子とある。

 七文字ずつ区切って末を読むと「咎無くて死す」と読めるいろは歌や伊勢物語のかきつばたの折句は有名だが、漢詩にも折句のようなものがあり蔵頭詩といい、頭文字を拾うと意味があるという。この序文は漢詩ではないが、大切なメッセージが隠されている。

 読者はもうお判りだろうか?頭文字で「仙洞也」と読める。仙洞御所――吉子が生まれた御所であり、仙洞様は永らく吉子の父霊元院を表していた。六歌仙と書かず「六仙」としたり、艶めかしさが漂う「洞房窈窕」を敢えて使ったりして頭文字を無理矢理合わせた感を筆者は抱くのだが、漢文や岡田新川の研究者による分析を待ちたい。

(追記)

 蓬左文庫の蟹江本を確認したところ、同じく仙洞也と読めた。異なる点もあった。

1.題が「阿薫和歌集」となっている。

2.宗春の死去を「公薨」でなく「公捐館舎」としている。

3.「冷泉家」で平出を用いている。(敬って改行している)

4.録而蔵于家の助字「于」がない。

 天明五年は謹慎が解かれる前だったから薨去の字を使うのが公式には憚られたものと思われる。よって蟹江本は公式に献呈されたものと考えられる。蟹江本は原本でありそれを写した宗春恩顧の者が書き写した際に「薨」と直したのだろう。

 

富士見原 湯上りに遊女と花火で一杯

◎江戸時代のスーパー銭湯

 スーパー銭湯の発祥が名古屋という話を調べてみたら、名古屋コンベンションビューローのウェブサイトは「1985年の高岡市が一番古い」とあっさりとその座を譲っている。それ以前からヘルスセンターという複合温泉施設は存在しており、何をもってスーパー銭湯というかあいまいではある。銭湯を中心とした複合遊戯施設と定義すれば実は名古屋が一番古い。それは享保十七(1732)年夏のこと。

 ◎ソワレもOK

 西小路、葛町と同じく享保十六年に開設された遊所の富士見原は、中区下前津交差点の南、橘と富士見町あたりにあった。富士見と言っても富士山は見えない。北斎は富嶽三十六景の尾州不二見原で大樽の間に富士山を描いているが、全くの創作だ。

 ここは不思議な遊所で様々な地図が伝わる。

 「名古屋錦」及び「夢之跡」から作成され、明治の名古屋市史に使われた地図が「なごやコレクション」で公開されている。

 猿猴庵による「尾陽戯場事始」の挿絵は☆印から見たもの。

 わざわざ夜芝居と書いているのは、当時の芝居がマチネーのみだったからだ。夜の興行は許されていなかった。右側に矢倉があるのが芝居小屋。左手に花火が上がっているが、打ち上げ場所は絵の右手奥だったと思われる。

 地図をよく見ていくと(人形)福引とか遠眼鏡とか面白い店があるが、割愛して、南端を拡大する。

 中央に「入湯」とある。別図には「薬湯」と書かれる。「月堂見聞集」に「有馬の汲み湯と申し立て」とあるのがこれなのだろう。周辺には蒲焼、酒肴、田楽その他色々、などナイトバザールの様相。東には「二階作り貸座敷」があり、猿猴庵の絵の奥の方に風呂屋と共に描かれている。猿猴庵がこの南北に長い地図に基いて描いたことが推測できる。

 ◎在地資本が京阪からの遊女を抱えた

 先日、西尾市岩瀬文庫で見た寛延三年に写された地図は東西に長く、翻刻された「遊女濃安都」に掲載された地図に近く、引用した地図と趣を異にする。著作権の関係でここに出せないのが残念だが、そこに記されたものを抜粋転記すると

開地享保十六辛亥年号富士見原当地永安寺町八郎右衛門家取立始而此所ヘ翌十七壬子年春移ル家三軒立八郎右衛門則改富士見屋外日野屋若松屋右三軒也京大坂より遊女共罷越繁昌吉田より華火取組夥布賑合ニ而有之

 享保十六年に開かれ富士見原と号した。名古屋の永安寺町の八郎右衛門が家を建て始め、翌年春には富士見屋と名を改めた八郎右衛門の他に日野屋、若松屋が建って、京都や大阪から遊女が来て、吉田(豊橋)からの花火が半端なく打ち上げられ大いに賑わった。

 富士見原の南は空地が広かったようで、お大尽の二階座敷に始まり、貸席、涼み台とそれぞれの分に合った楽しみ方ができたようだ。花火の観客は堀を越えて富士見原の南に群集していたらしい。

 ◎花火の仕掛け人は酒屋

 「遊女濃安都」は次のように伝えている。

長者町和泉屋権右衛門方へ、三州吉田より客人有之、富士見ヶ原にて花火揚候由、風聞申出、今日古今の賑合、前津田畑を踏荒、押合へし合、溝川は勿論、肥壺へ落るもの夥し。花火、さのみ替事なき流星玉火計なり。

 長者町の和泉屋権右衛門に三河吉田から客人があって、富士見原で花火をあげたそうで、聞くところによれば、未だかつてない賑わいで、(観客は)前津の田畑を踏み荒らして押し合いへし合いして、堀や小川に落ちる者、果ては肥溜に落ちる者も多くあった。花火はとりたてて変わったところのない流星玉ばかりだったけどね。

 上長者町の和泉屋権右衛門は酒屋だ。先に引用した地図の文から三河吉田の客人とは花火師というのがわかる。つまり書き手は和泉屋が富士見原の花火の仕掛け人だとほのめかしている。それはさぞ酒も売れたことだろう。これが隅田川花火が始まる一年前のこと。

 いわゆる同伴で登楼する前、風呂上りに座敷を借りて遊女と花火で一杯酌み交わすといった島原にも吉原にも無い肩肘張らない遊びがここにはあったのだろう。

 もはやスーパー銭湯の範疇には納まらない……これは統合型リゾート?それでもギャンブルだけは御法度だった。