犠牲は御無用

◎千金の宝物も人命には替えらえない

宗春の著したマニフェスト「温知政要」で火事への備えについて書かれた条がある。

 火災の際にすぐに集まることができる人数が意外に少ないことを念頭にして、

「多からぬ人数を方々へわけて、火も防がせ、道具の支配も致させ、いろいろのことに使ひては、いずれの方の間も合わず、死傷の者多くできるよりほかあるまじ。たとひ千金をのべたる物にても、かろき人間一人の命にはかへがたし、これらの類、皆々上たる者の勘弁なく不裁許より起る事なり。」

 少ない人数の者らに、やれ延焼を防げ、やれ伝来の道具を守れ、などと色々なことを命じてはそれぞれ中途半端となり死傷者が多く出てしまうであろう。貴重な道具であっても軽輩一人の命に替えることはできない。こんなこと(道具を守るために命を賭すこと)は上に立つ者に弁えが無く判断を示さないところから起こるのである。

 上に立つ者、すなわち宗春自身への戒めと読める。人命優先は今でこそ当然のことだが、敢えて書かれているということは、当時は当たり前ではなかったからだ。

 

◎「腹蔵」の美談

 先年上演された「染模様恩愛御書」は、いわゆる血達磨物といわれる歌舞伎演目だ。血達磨と聞くとプロレスの流血のように血まみれになる状態を思い浮かべるが、話の基になったのは肥後細川家に伝わる血染めの達磨の軸の由来譚だ。細川綱利に恩義のある大川友右衛門が江戸藩邸の火災の折,家宝の達磨の掛軸の焼失を防ぐため切腹して腹中に収めて守ったという。史実としてはかなり怪しい。腹に入る掛け軸は相当小さいだろうし、そもそも血まみれになっては守ることになるのだろうか。だが、ここでは史実であるかどうかは当面重視しない。命を賭して伝家の宝物を守ることが忠義である、と当時一般に考えられていたかどうかが肝心だ。血達磨物は、正徳二年、京都布袋屋座で「加州桜谷血達磨」として上演されたのがその始まりとされる。すなわち宗春が温知政要を著した時にはすでに細川の血達磨の話は人口に膾炙していたと考えられる。

 この共通認識に立って、宗春は、蔵番のような軽輩であったとしても宝を守るために命を捨てさせてはならない。美談として称賛するから命を落とすものが後を絶たないのだ。軽々に命を捨てるは忠義にあらず、というのだ。

 

◎犠牲は美しく見える

 私たちは不用意に災害による死没者の事を犠牲者というが、犠牲という言葉には元来、何かの目的のため、という前提がある。共同体の望みを叶えるために動物の生贄や人身御供がなされた。捨身飼虎、贖罪、と宗教に取り入れられて犠牲は崇高な文化となってしまった。「銀河鉄道の夜」「幸福な王子」…自己犠牲は退廃的で甘美ですらある。容易に人の心を惹くから、滅私奉公、御国のために桜のように散れと戦意発揚に利用された。

 決して昔の事というわけではない。犠牲バントは原語からの和訳とはいえ、犠打で一死、と続くと犠牲と死の結びつきは強固となる。命がけで頑張ります!体を張って頑張った。……犠牲を顕彰する伝統は今なお私たちの中に根強く残っていると気付く。犠牲心溢れる人を褒め讃えるのは、村のためにマンモスと闘って亡くなった者を讃えた原始の血が騒ぐのだろうか?あるいは隣の部族と闘って戦死した勇者を神に祀り上げて若い戦士を鼓舞するためなのか?

 国家主義が性懲りもなく勢力を増してきた昨今。「主君のため」「御家のため」に犠牲になるな、命をささげる必要はないという宗春のメッセージは今も新鮮だ。

 今後は、戦争の犠牲者といわず、単に戦没者、被害者と認識すべきだろう。 

◎席次のどん尻

 宗春治政から半世紀以上後の享和年中の成立とされる「尾州家官制」は、藩中の席次を示したものなのだが、役名だけではない。成瀬、竹腰の両御附家老から始まり

六百に近い役と門閥家名が入り交じり序列が定められている。

 蔵を管理する御蔵方は最後に、しかも字下げされて記されている。宗春は、この家臣中序列最下位の「かろき人間」の命をも尊重したのだった。のみならず、門閥でない家臣をも積極的に登用した。家臣だけではない。領民を同じ人として見た殿様だった。…その証左はまた後日。