宗春を追い落とした家臣たち

◎不都合な真実は幕府の日記にあった

 PKO活動で当該エリアでの戦闘の有無が国会で議論された際、自衛隊の日記を破棄したという耳を疑う言葉があった。結局はデータとして残っていたわけだが、国が行っている活動の記録がPKOやりました、だけで済むわけはない。現場の記録を軽視している。事件は現場で起こっているのだ。

 後に残って都合の悪いものを破棄するのは、犯罪者のみならず、時々の権力者の常だ。だから後の世に意図的に残された史料には疑いの目を向けること(史料批判)は研究者の常道だ。歴史捜査というテレビ番組があるが、証拠の確度を見極めつつ推理する過程を鑑みれば、なるほど歴史研究は犯罪捜査に似ている。

 徳川幕府の正史である「徳川実紀」になく、尾張の正史にも残っていないが、徳川実紀が参考にしたとされる幕府の日記「柳営日次記」に興味深い記事があった。宗春が蟄居となった元文四年正月、尾張家を相続した徳川但馬守(宗勝)が家臣を引き連れて二十八日に御礼の登城をした記録だ。

 (国会図書館デジタルコレクションより)

 前主君が謹慎となって十五日後に新しい主君と共に御礼に登城した家老竹腰志摩守以下十一名の尾張家臣が記されている。

 家中の首謀者が家老の竹腰正武であったことは、正武の事績を称揚する「尾張大夫義忠府君行状」に記され、ここでも成瀬隼人正を押さえて筆頭となっていることからもほぼ間違いのないことだろう。その首謀者に引き連れられて時期将軍に御目見えしたのだから宗春を追い落とした者たちと言えよう。ここには年寄だった星野織部や成瀬大膳の名はない。

 この中で筆者が小説「宗春躍如」で取り上げたのは用人(柳営日次記では供番頭)の横井孫右衛門、星野八左衛門、遠山大膳の三名だ。以下に遡及的に関係性を洗い出してみる。

 

◎明暗を分けた小姓トリオ

 享保十七年二月十三日、同時に小姓として召出された遠山百太郎(大膳)、千賀茂兵衛、小笠原斎宮の三名。歳の近かったであろう彼らのその後は三者三様だった。

 斎宮は、先のブログで書いた小山主膳事件に連座して享保二十年に致仕。

 宗春隠居時も小姓のままだった茂兵衛は宗春に付き添い、その十四年後の宝暦三年に小納戸として再度召し抱えられた。

 元文二年に小姓から用人に転じた遠山大膳は、宗春蟄居後も昇進を続け、宝暦十一年、年寄、その後従五位下伊豆守の士大夫にまで昇り詰めた。結果としてただ一人、上手く主君を乗り換えたわけだ。

 

◎孫右衛門は俳人横井也有(やゆう)

(栗原信充/画、国会図書館デジタルコレクションより)

 日付は横井孫右衛門也有の没した日だ。「ひるがほやとちらの露もまにあわす」すなわち、昼顔は朝露も夜露も受けることができず間の悪いものだ、と間の悪さを茶化している。実は露に濡れて品を作る朝顔や夕顔でなく、真っ当にお天道様の下に咲く昼顔に共感を持っているのではなかろうか。

 のちの時代に描かれたこの肖像画や「鶉衣」などの軽妙洒脱な俳文からは、滑稽な好々爺の雰囲気が漂うが、後に大番頭、寺社奉行まで勤めた有能な藩士名門横井藤瀬家の惣領だ。

 「稿本藩士名寄」の同年の記事は

元文四年未四月十一日 御帰国ニ付御供ニ而登城於御黒書院公方様大納言様江御目見巻物二拝領

これ以前の正月二十八日の御目見えを隠蔽している。宗春蟄居と同月に江戸城に登城し大納言家重に御目見えしたことを記録に残すのは憚られたわけだ。やはり、宗春追い落としの功労者と見られたくなかったからだろう。

 

◎星野八左衛門は織部の実兄

 この御目見えの事実を包み隠さず堂々と自らの経歴として藩に提出した者が一人だけいた。星野八左衛門――宗春の寵臣織部の実兄だ。八左衛門は逆に宗春追い落としの功労者と見られたかったのだろう。

元文四年未正月廿八日 御相續御礼御登城之節 御供ニテ御城江罷出太刀銀馬代紗綾弐巻献上奉拝 将軍吉宗公 亜相家重公

 吉宗も居たとする部分以外は紗綾の巻数まで一致する。

 八左衛門はこれ以前に、ある使命を与えられた。上記と同じく「稿本藩士名寄」から引用する。

元文二巳九月十五日 此度民部様御産之為御用事江戸表江被差遣候間 御附人をも兼勤候様ニ可相心得旨於御前御直被仰付

 出産が近づいた宗春の側室の民部の付け人となれ、と直接宗春から命じられた。

 嫡子を亡くした宗春は、跡継ぎの無事の誕生を願って織部の兄という血縁を信頼したのだろう。ただし、諸大名からの嘉儀の使者を取り仕切る実務となると八左衛門では頼りないと宗春は考えたようで、すぐさま別の用人を添えたことが次の史料に見える。

 以下は、「稿本藩士名寄」の横井孫右衛門の項。

元文二巳十月三日 此度御出産之節 蟇目矢取之役相勤候様ニと被仰付

 同日 今度民部様御出産之節当御代初而之御儀 其上殿様御留守方之儀にも候 先達而星野八左衛門儀 右御用并御附人相兼相勤候様にと被仰付被遣事候間 何も一統ニ申合諸事御大切ニ御模通宜相勤候様被仰出

 蟇目矢取とは出産の際に魔除けに放たれる鏑矢を取る役目だ。それだけでなく八左衛門に協力するよう命じている。

 さらに、年寄に引き上げた横井豊後をも江戸へ向かわせた。彼らは全て宗春が信頼した者たちだと考えられる。

 ここまで念を入れるということは、逆から見れば江戸詰の家老竹腰正武を疑っていたことをうかがわせる。奇異な振舞いで幕府と対立する宗春の隠居を望む声が宗春にも聞こえてきたのだろう。家臣の間での対立が深まっていたようだ。

 

◎加藤清四郎へのお咎め

 八左衛門に命が下ったよりさらに九日前、加藤清四郎、喜四郎兄弟が蟄居となった。今まで誰も指摘していないがこのお咎めには継嗣をめぐる藩内の軋轢を静める意味があったと推測する。

 「士林泝洄」から蟄居前後の記事と共に引用する。

加藤清四郎

享保十六年亥五月廿二日 附属于國丸主為御書院番頭

元文二年巳九月六日 有故公収食邑賜俸七十六石蟄居

 四年未九月廿一日 返賜食邑八百石為寄合

 

加藤喜四郎

享保五年子八月廿五日 被召出新御番賜俸

元文二年巳九月六日 有故公収俸蟄居

四未九月廿一日 為御馬廻賜俸

 

 蟄居は「故あって」と理由は明示していない。当時の状況から考えてみる。

 清四郎は宗春の嫡男国丸の書院番頭だったが国丸は夭逝してしまった。その傅役として責任をとらず、知行の返上を申しでることもなく今日までのうのうと禄を食んでいる。来る九月九日は国丸の三回忌だ。そして民部の出産が近い。罰を与えて生まれる子の傅役の戒めとしなければならない、と宗春の寛容な施政方針への批判の高まりが宗春側近からもあったのだろう。宗春は側近の意見を無視もできず遅ればせながら加藤兄弟を咎めたのだろう。食い扶持の七十六石を与えたのは宗春からの慰謝料だと推測できよう。兄弟とも宗春が蟄居となった元文四年に揃って許されていることからも宗春側近が望んだ処罰だったのだろう。

 この御咎めの後の出産立合いの命である。跡継ぎの無事な出生と扶育がなされなければ禄を減らされることが示され、江戸へ派遣された者たちの重圧は高まったことだろう。

 側近たちの期待の中、十一月、男児が無事誕生し龍治代と名付けられた。待望の宗春の世継ぎだったがその年のうちに夭逝してしまった。

 派遣された者たちは御三家の嫡男誕生を祝う使者に溢れる市ケ谷邸で昂揚感を味わい、翌月に数多の弔問の使者に応対して多忙な年の瀬となったことだろう。

 

◎使者の結束

 彼らは国元には帰らなかった。命には側室民部の付け人として御用を勤めよとあるから三月の宗春の参府までは留まらなくてはならない。苦難に直面し使者の結束が高まった。若き年寄の横井豊後と同門の孫右衛門、孫右衛門と星野八左衛門、さらに彼らを束ねたのは家老竹腰正武だったと筆者は推測する。正武は江戸詰となって丸二年経ち、将軍や幕閣との繋がりに自信を深めていたことだろう。「主君に失政あれば押込もやむなし」との言質を取っていたものと思われる。押込とは主君を幽閉して政治権力を剥奪するクーデターのことだ。

 それは、早くも五月末日に実行された。「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏が指摘するように「徳川実紀」での宗春の記載は五月二十六日が最後で九月十日まで見られない。江戸藩邸で宗春が幽閉されたのだ。実力行使の際、寵臣織部を抑えたのは兄八左衛門であっただろうか。名古屋では六月九日、宗春の参府と入れ替わりで帰国していた横井豊後から旧制に復するよう触れが回ったことは「遊女濃安都」はじめ多くの史料に見える。

 信頼して役を与えて派遣した者たちが皮肉にもクーデターで重要な役回りをすることになってしまった。

 

◎「鶉衣」を史料として読む

 横井孫右衛門こと也有が著した「鶉衣」の元文三年に書かれた二句を挙げる。

 俳文は風流を専らとするから生々しい政争がそのまま書かれるわけではないことを予めことわっておきたい。比喩をどう解釈するのかが肝要だと筆者は考えている。

 

名徳利説(とくりになづくるのせつ)

題の下に「応星野氏需(ほしのしのもとめにおうじて)」「元文三年冬」とある。押込が解けて宗春が再出勤し数ヶ月後の作となる。

 俳文の内容は、徳利を持参した星野氏に也有が銘を求められ、その名を「此童」とした意味を語る。

 内容に入る前に筆者の見立てを記しておきたい。星野氏は八左衛門。徳利は織部を表しているのだ。

 まず、備前焼の六升徳利は銚子と違って注ぎ口がどちらへも向かず空に向かっており「いづれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそなふなるべし」と不偏であることを褒めている。

 次に、竹を愛した王子猷(おうしゆう)の故事をひいて星野氏の膝下にまつわっていた徳利を「かの此君の名の古きを尋ねて『此童』とよばん」と命名する。

 此君は一般には竹のことだ。酒徳利が身近にあることを「膝下にまつわる」とするのは無理のある表現で後の「童」と考え併せると也有は徳利に人を見ている。織部の古き名は「此面」という。

 句に至る最後の部分はそのまま引用する。 

 世の近侍の童は、立居に尻のかろきをほむれども、此童の奉公振は、ただいつまでも、いつまで草の根づよく、尻の重からむこそ、主人の心には叶ふなるべけれ。

  近頃の小姓は動きの良い者が褒められるが、本来はこの者のいつまでも根強く、尻の重い奉公こそが主人の意に叶うものなのだ。

 遠山大膳が小姓から転出し、押込以降多くの側近が離れていくが、織部はいつまでも頑なに宗春に従ったことを也有は褒めていると取れる。

 

月に雪に花に徳利の四方面

 

 一般には、何にでも合う四面徳利であるよ、と解釈されている。史料として見る筆者の解釈は大いに異なる。「月に雪に花に」は白居易の「雪月花の時、最も君を憶う」を意識して「忠君」を表す。四方面は四面楚歌を意味しているのだ。備前の六升も入る大徳利に四面のものなどあるはすがない。也有は家中で四面楚歌でも不偏に主君に仕える織部をそのままにしておけと八左衛門に言ったのだ。

 

 次にこれに先立つ「元文戊午(三年)之秋」と付され「手水鉢銘」と題された部分。おそらく宗春が押込に遭っている最中と思われる。

 これも手水鉢の銘を友人の堀田六林から求められた際に「時々新」と名付けたことについてかかれている。これも最後の部分を引用する。

世はよし五月雨のはれみくもりみ、蹌踉(そうろう)の水は濁るとも、ひとり此水の底清からましかば、纓(えい)を洗ひ耳をすゝぎて、長く閑居の契をもむすべとぞ。

 

汲みかへてもとの月あり手水鉢

 

 たとえ世の中が、梅雨時のように晴れたり曇ったりして、蹌踉の水のように濁ったとしても、この手水鉢の底だけは清いから冠の紐を洗い、汚れたことを聞いた耳を濯いで隠居暮らしの縁とするがよい。

 この俳文には中国の二つの古典からの引用がある。

 ひとつは、漁父の辞。潔癖な屈原に漁師は蹌踉川の水が清ければ冠の紐を洗えばよいし、濁っていれば足を洗えばいいじゃないか、と時流に合わせ妥協することをといたもの。

 もうひとつは、「史記正義」等にある故事から、帝位を譲ると聞いて「汚らわしいことを聞いた」と川で耳を濯いで隠遁した許由の話。

 俳諧の心得である不易流行を水の在り方で表現し、水に関わる故事を交えて六林の清しい閑居を羨んでいるようだ。時の尾張藩政は目まぐるしく事態が転変し、用人を勤めていると汚らわしいことも多く聞いたことだろう。一方、句には藩主が変わったとしても、いや藩主を変えても代々の奉公は変わらないという自信がみなぎっているように見える。

 因みに「柳営日次記」に見えるもう一人の用人富永定右衛門は六林の実兄である。

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千両箱盗難事件の意味

◎一顧だにされなかった事件

 尾張家市ケ谷上屋敷で起きた千両箱盗難という耳目を引く事件ながら、なぜかこれまでの研究、他の小説で全く触れられていない。このため一般にもほとんど知られていないので「宗春躍如」における記述すべてが創作だと思われないかと筆者は危惧する。史料からこの事件の存在を示し、事件の結果が尾張家中に及ぼした影響を考察する。

 

 「金府紀較抄」享保十九年

一 当四月下旬江戸市谷御屋敷に而 御金千両箱紛失之由に而 御小性衆小山主膳へ御不審懸り 七月上旬名古屋へ上り 上り屋江入被申て 一家一門へ難義懸り申候

 

 四月に千両箱が紛失して嫌疑が小姓の小山主膳にかかり、七月に名古屋の揚り屋送りとなり、親族に難儀がかかった、と伝える。ここでは「火付け」ではないし、庶民の「牢」ではなく身分ある科人を収監する「揚り屋」となっている。

 

後の時代に成立した「稿本藩士名寄」では、感情的で苛烈になっている。なお、括弧内は他の箇所から補った。

一 同十九寅五月 於江戸御科之品有之苗字御削(小助与改名)無宿小屋江入置候様ニと被仰出 無宿小屋江入 屋敷被召上諸色等相改差置候筈并諸色ハ御目付御小納戸立合改令封印右屋敷ニ指置番人附置

一 主膳娘并召仕之男女親類之内江引取指置候様ニと申渡有之

一 同年六月 右小助御金盗取其上御殿ニ火を付大罪至極重々不届ニ候仍之土器野ニ而火焙可申付候名古屋町中引渡之儀可申付由被仰出

 享保十九年五月、江戸で罪を犯したので苗字を削り(小助と名を改め)無宿小屋へ入れ置けと(宗春が)命じた。無宿小屋へ入れ屋敷が召し上げられ財産を差し置き、目付小納戸が立合いの下、封印させ、屋敷に番人を付け置いた。

 主膳の娘並びに召使の男女は親類の内へ引き取り差し置くようにと申し渡された。

 同年六月 小助(主膳のこと)御用金を盗み取り、そのうえ御殿に火をつける罪は極めて重い、土師野にての火あぶりを申し付け名古屋町中引き回しを申し付けるようんいと(宗春が)命じた。

 こちらは、「千両箱」はないが、御用金を盗み「放火」したとし、苗字を剥奪して無宿小屋に入れたとする。

 宗春の峻厳な命令が記されるが、このあと死刑執行の記述はない。そんな命令はもとから出なかったのだろう。同書は宗春が失脚し罪を赦されない頃に書かれたものだ。当ブログの冒頭から読んでいただければ宗春が人命を何よりも尊重したことは理解していただけるはずだ。そんな宗春が重用した主膳に死刑を命じるわけがない。一方で事件そのものは起きたのだろう。そして主膳に嫌疑がかかる状況があったのだろう。

 

◎小山主膳の背景

 藩主継友が直々に烏帽子親となった半元服が享保五年だったから享保十九年の主膳は三十歳前くらいか。宗春の代になってからも引き続き小姓で享保十七年から小納戸兼役となった。小納戸は藩主の髪を整えたり、食膳を供したりといいった役なので、藩主の身近に接する機会は格別に多い。

 小山家の家禄は千石。父は既に他界し、現当主は国用人の市兵衛。二男の主膳は小姓に召され、三男は他家へ養子に出された。典型的な三兄弟の配置といえる。

 召出されて間もない世間知らずならともかく、召出されて十三年も二代にわたり最側近の小姓として勤め、今は小納戸兼役という覚え目出度い主膳が御用金を盗み、火付けまでするとは考えにくい。

 嵌められた――謀略があったと筆者は推測する。誰が、何のために?

 

◎縁座による処罰

 事件の翌年、主膳は科人のまま死ぬ。

 

 「稿本藩士名寄」

一 享保二十卯二月十九日 牢死

一 同年三月 小助儀大罪之者之事候故存命ニ而罷在候得ハ火罪ニ被行筈候処令病死候儀候故此上御仕置ハ不被仰付

 

 大罪だから火あぶりとすべきところだが、病死したから、そうはしなかった、と言い訳がましい。

「金府紀較抄」では牢でなく上り屋で病死、月も次月となっているが、親類に及んだ影響を伝えている。

 

一 当三月 小山主膳上り屋に而病死に付 三月十九日右親類中半地に被仰付 叔父四千石織田周防守隠居家督弐千石被下 従兄弟千弐百石小笠原帯刀隠居弟へ六百石被下 叔父番廿石織田丹下隠居弐拾人扶持被下 妹聟七百石中川庄蔵へ四百石被下 寄合被仰付 従兄弟七百石土屋庄左衛門隠居弟へ三百石被下

 

 親類の家禄が半減され、多くは隠居、御役御免となった。妹聟という姻族、血縁で最も離れるのは四親等の従兄弟まで連座となった。その従兄弟の小笠原帯刀の家譜に母の記載が見つからないが、織田家から嫁いだものと考えられる。当主の年寄役が隠居となり、姉妹の嫁ぎ先に難儀をかける事となり織田家は面目を失った。

 

◎新参だった織田家

 織田家は言わずと知れた信長の子孫の名家だが、尾張徳川家中となったのは三代藩主綱誠の小姓として貞幹が召出されたのが最初だ。当初百石だった新参者は綱誠に用いられてあれよあれよという間に二千八百石の年寄の士大夫となった。子の長恒も継友によって年寄に引き上げられ、宗春代に士大夫となった。

 新参者が重用されては譜代の家臣は面白くなかっただろう。織田家二代が政務に長けていたかどうかは定かではないものの、歴代藩主との関わりの古い家柄よりも才を用いる風は、幕府では綱吉代から見えており、当代吉宗の足高の制で制度化されていた。尾張家でも同様の風潮が兆したものと思われる。

 この事件が謀略であったとしたら、結果からは家柄軽視の風潮に掣肘を加えるアンシャンレジームが目的だったと考えられないか。家柄重視の主張は、この事件の十三年後、藩主宗勝に献呈された「士林泝洄」に形となって表れた。御附家老の成瀬家を筆頭に尾張徳川家との関わりの古さで家臣団を階層分けし序列化している。百二十二巻中、織田氏は百十三巻目にようやく登場する。

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一枚岩ではなかった吉宗政権

◎綱吉仁政の名残り

 結果からみて宗春と吉宗が対立したという視点で見ているとディテールが見えてこない。そもそも和を以て貴しとなす厩戸王以来の伝統で独裁者は日本には現れなかった、と書くと批判もあろうが、少なくとも宗春も吉宗も独裁者ではなかったようだ。吉宗は現実をしっかりと見据えたバランス感覚のある将軍だったと思われる。適材適所で向き不向きを見て使者を選択していたようだ。

 宗春代の尾張家(藩邸以外も含む)への使者を下の表にまとめた。

 当初は老中在任期間の長い松平乗邑が最高格の御使として訪問したが、いわゆる三ケ条の詰問の後は、松平輝貞が多く御使となった。輝貞は厳密には老中ではないが老中格で御意見番といったものだったと思われる。表中の老中を就任の古い順に書き並べる。数字は享保17年当時の年齢。

松平乗邑 47

酒井忠音 42

松平信祝 50

松平輝貞 68 (老中格)

黒田直邦 67 (西之丸)

因みに吉宗は49歳。使番の滝川元長は71歳。

 後に幕閣に加わった者の方が年上という逆転現象が起きている。

 滝川元長を含めて60歳以上の共通点は五代将軍綱吉に仕えていたことだ。輝貞は生類憐みの心を強く持ち続け、吉宗の方が鷹狩の獲物を与えることを控えたという。先の記事で書いたように直邦は荻生徂徠、太宰春台との交わり深い学者でもある沼田の名君の誉れ高い。

 三ケ条の詰問の後、使者の元長を清戸へ誘い懐柔し、嫡子萬五郎の節句祝いに輝貞が使者となり、その後の尾張家向きお定まりの使者となった。宗春の施政に理解を示す綱吉恩顧の者たち――筆者はここに綱吉も目指した仁政の名残りを見る。

 清戸へ誘われなかったもう一人の使者石河政朝は、尾張家老竹腰正武の実弟であり、後に町奉行となって乗邑の下で公事方御定書の編纂に携わることになる。

 

◎欝だった宗春

 表中、享保十七年の三ケ条の詰問後の宗春の病気について新たな知見がある。

『稿本藩士名寄』の大寄合野崎主税の項に興味深い記事がある。

享保十六年亥六月廿八日 御朦氣為御尋使被進候 上御礼使相勤候付有徳院様江御目見

 朦氣(鬱病)見舞いに使者が来て、その御礼の使いとなって吉宗に御目見えした。鬱病となったのは誰か?主語がないが「御」朦氣と敬ってあるから宗春以外には考えられない。ところが年が違う。享保十六年六月は宗春は国元に居り、そこに病気見舞いの使者が来たとは考えにくいから、後年提出した野崎家家譜の単純な年の誤記であろう。享保十七年の宗春の病は鬱病であった可能性が高い。

 

◎吉宗が宗春に急報

 元文元(享保二十一)年三月の参府直前の駅使による尋問はかなり重要な知らせであったと筆者は考えている。これに呼応するように宗春は道中で新地を一カ所に取り纏めることを令した。この令が三月十一日に名古屋に届いたことが「遊女濃安都」に記され、「尾藩世紀」では島田宿で発令したと特定している。さらに、参府着邸後、吉宗との対面の前に宗春は新地全廃の令を出した。

 つまり、このまま参府しては宗春にとって良くないことが起こることという忠告だったに違いない。令の内容から遡って想像すれば、名古屋の風俗紊乱への抜本的な対策がなされなければ藩主解任もやむなし、というものだったのであろう。幕府の正史たる「徳川実紀」にとられているわけだから、幕閣の誰かが勝手に伝えてものであるはずはなく、吉宗本人からの報せと考えるのが妥当だろう。宗春就任時に二人の間に伝書ホットラインがあったことは「月堂見聞記」にも書かれている。

 江戸詰になっていた竹腰正武が藩主押込に対する内諾を幕閣に求めていたと考えられないか。駅使による尋問は、その動きを知った吉宗が垂れた蜘蛛の糸だった。

 正武は参府した宗春に追い打ちをかけ、一カ所でも遊所を残すようでは手緩いと迫ったものと思われる。

 自ら許した遊所の廃止とそれに伴い職を失う新地の者らの行く末を想うと忍び難い辛さがあったろう。一方で吉宗の恩情を裏切るほど薄情な宗春でもなかった。

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太宰春台コネクション

◎奇を好む儒者

 太宰春台は荻生徂徠の門下の博覧強記の儒学者だ。厳しく子弟の礼を求め大名の子弟にも謹厳であった。その説くところは軽やかだ。「今の世では金銀を手に入れる計をなすことが急務であり、それには商人のように売買することが一番近道である。領主が金を出して国の土産や貨物を全部買い取って他国で売るのが良い」と明らかに重商主義的な経済思想へ進展=転換している。

 一方、舞や笛にも秀でていた。京都で放浪中に辻氏から舞の免許状を貰っている。黒田直邦からもらった舞衣をもっていた。笙も吹くが横笛がもっとも得意で名手だった。(「太宰春台」 武部善人 吉川弘文館)

 

◎露見すれば間違いなく首が飛ぶ上書

 「恐れながら封亊を以って言上仕り候」という書き出しから「太宰純誠惶誠恐頓首々々死罪々々謹言」という上表の形式に基いた享保十八年の上書が伝わっている。太宰春台から前年に西之丸老中となった黒田直邦へ宛てたもので吉宗の失政を諫言すべしと訴えかける。直邦が腹の据わった人格者であったから良かったものの露見すれば死罪は確実だったろう。内容は極めて辛辣だ。この年の正月には江戸で初めての米屋の打ち壊しが起きていた。幕府の指示で大坂の米相場に介入していた高間伝兵衛宅が襲われたから状況は深刻だったから、春台も幕閣も真剣だった。

 米相場に介入して吉宗が「人民と利を争い候ては、いつとても民に勝候ことあたはず、却って民の怨心を引起し候」、上が利を求めるから家臣も天下万民の事より私利を優先するようになる。この際、「山王、神田以下諸社の神事を先規のごとく執行せしめ、遊女丁、見世物場を故のごとく許され、都て繁雑なる政令を一切に停止せられ候はば、万民欣喜仕」

 これは宗春の施政に倣えと言っているようにしか思えない。

 

◎尾張年寄との接点

 そもそも直邦は荻生徂徠門下で春台にも私淑していた。だからこのような上書も受け入れたのだった。

 宗春と徂徠学の接点については林由紀子氏の研究がある。(「徳川宗春の法律感と政策」『近世名古屋享元絵巻の世界』清文堂)氏が徂徠学との接点があったとする尾張藩士の中に鈴木明雅がいる。享保十四年従五位下朝散大夫になった時、春台から詩文を贈られるほど親しい間柄だった。

 尾張の知恵者として『趨庭雑話』は、次のようなエピソードを伝える。

 章善(宗春)公の時、覇府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 幕府老中から「木曽の木を使わせろ」と言われたところを明雅が「良いですよ。でも木を流して運ぶ木曽川はお貸しできない」と答えた。まるで一休頓智話。これが公式に言い渡された話だとは筆者(大野)は思わない。人々が返答に窮したという部分は盛ったところだ。思うに元は幕府老中となされた茶飲み話だったのだろう。明雅が冗談話を交わせる仲の幕府老中は前述の黒田直邦であったに違いない。

 

◎宗春シンパの老中

 さて、意を決した上書を受けた直邦は吉宗に諫言したのか?残念ながらそれは記録にないが、この後、禁止だったはずの豊後節が禁制の心中物を上演できたのは直邦の意見があったのではないかと筆者は思っている。禁制の心中物とは、名古屋発の「睦月連理の玉椿」のことだ。

 幕府の豊後節取締り方針の曲折は笠谷和比古氏の「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」(『日本研究』 国際日本文化研究センター紀要 第三三集、二〇〇六年)に詳しい。

 「吉宗と宗春が対立した」という硬直化した視点からでは幕府方針の曲折は説明できない。幕閣の中にも宗春の目指す仁政に理解を示す者もあった。筆者は黒田直邦以外にも居たと考えている。

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入墨か、半剃りか

◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。

 オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。

 タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。

 

◎罪人の印に

 デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。

「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」

 十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。

 消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。

 

◎半剃りの刑

 元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。

「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」

 罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?

 

◎牢に入った小者を側近の物頭に

 宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。

 

112-112 浅田市右衛門

▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱

  金五両御扶持方二人分被下置

▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下

▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付

  御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下

▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付

  御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置

 

 主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。

 

▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り

  永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡

 

 梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……

 

▽ 同十六年四月 出牢被仰付

  千賀与五兵衛知行所江御指遣シ

 

 市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。

 そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。

 

▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出

  御切米拾三石御扶持方三人分被下置

▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付

  御切米廿七石二人扶持被下置

▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付

  御加増四拾石都合八拾石五人分被成下

▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭

  御小納戸兼役被仰付

  新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下

 

 昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。

 

◎時が経てば消える罰

 宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。

 「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。

 半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。

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富士見原 湯上りに遊女と花火で一杯

◎江戸時代のスーパー銭湯

 スーパー銭湯の発祥が名古屋という話を調べてみたら、名古屋コンベンションビューローのウェブサイトは「1985年の高岡市が一番古い」とあっさりとその座を譲っている。それ以前からヘルスセンターという複合温泉施設は存在しており、何をもってスーパー銭湯というかあいまいではある。銭湯を中心とした複合遊戯施設と定義すれば実は名古屋が一番古い。それは享保十七(1732)年夏のこと。

 ◎ソワレもOK

 西小路、葛町と同じく享保十六年に開設された遊所の富士見原は、中区下前津交差点の南、橘と富士見町あたりにあった。富士見と言っても富士山は見えない。北斎は富嶽三十六景の尾州不二見原で大樽の間に富士山を描いているが、全くの創作だ。

 ここは不思議な遊所で様々な地図が伝わる。

 「名古屋錦」及び「夢之跡」から作成され、明治の名古屋市史に使われた地図が「なごやコレクション」で公開されている。

 猿猴庵による「尾陽戯場事始」の挿絵は☆印から見たもの。

 わざわざ夜芝居と書いているのは、当時の芝居がマチネーのみだったからだ。夜の興行は許されていなかった。右側に矢倉があるのが芝居小屋。左手に花火が上がっているが、打ち上げ場所は絵の右手奥だったと思われる。

 地図をよく見ていくと(人形)福引とか遠眼鏡とか面白い店があるが、割愛して、南端を拡大する。

 中央に「入湯」とある。別図には「薬湯」と書かれる。「月堂見聞集」に「有馬の汲み湯と申し立て」とあるのがこれなのだろう。周辺には蒲焼、酒肴、田楽その他色々、などナイトバザールの様相。東には「二階作り貸座敷」があり、猿猴庵の絵の奥の方に風呂屋と共に描かれている。猿猴庵が南北に長い地図に基いて描いたことが推測できる。

 ◎在地資本が京阪からの遊女を抱えた

 先日、西尾市岩瀬文庫で見た寛延三年に写された地図は東西に長く、翻刻された「遊女濃安都」に掲載された地図に近く、引用した地図と趣を異にする。著作権の関係でここに出せないのが残念だが、そこに記されたものを抜粋転記すると

開地享保十六辛亥年号富士見原当地永安寺町八郎右衛門家取立始而此所ヘ翌十七壬子年春移ル家三軒立八郎右衛門則改富士見屋外日野屋若松屋右三軒也京大坂より遊女共罷越繁昌吉田より華火取組夥布賑合ニ而有之

 享保十六年に開かれ富士見原と号した。名古屋の永安寺町の八郎右衛門が家を建て始め、翌年春には富士見屋と名を改めた八郎右衛門の他に日野屋、若松屋が建って、京都や大阪から遊女が来て、吉田(豊橋)からの花火が半端なく打ち上げられ大いに賑わった。

 富士見原の南は空地が広かったようで、お大尽の二階座敷に始まり、貸席、涼み台とそれぞれの分に合った楽しみ方ができたようだ。花火の観客は堀を越えて富士見原の南に群集していたらしい。

 ◎花火の仕掛け人は酒屋

 「遊女濃安都」は次のように伝えている。

長者町和泉屋権右衛門方へ、三州吉田より客人有之、富士見ヶ原にて花火揚候由、風聞申出、今日古今の賑合、前津田畑を踏荒、押合へし合、溝川は勿論、肥壺へ落るもの夥し。花火、さのみ替事なき流星玉火計なり。

 長者町の和泉屋権右衛門に三河吉田から客人があって、富士見原で花火をあげたそうで、聞くところによれば、未だかつてない賑わいで、(観客は)前津の田畑を踏み荒らして押し合いへし合いして、堀や小川に落ちる者、果ては肥溜に落ちる者も多くあった。花火はとりたてて変わったところのない流星玉ばかりだったけどね。

 上長者町の和泉屋権右衛門は酒屋だ。先に引用した地図の文から三河吉田の客人とは花火師というのがわかる。つまり書き手は和泉屋が富士見原の花火の仕掛け人だとほのめかしている。それはさぞ酒も売れたことだろう。これが隅田川花火が始まる一年前のこと。

 いわゆる同伴で登楼する前、風呂上りに座敷を借りて遊女と花火で一杯酌み交わすといった島原にも吉原にも無い肩肘張らない遊びがここにはあったのだろう。

 もはやスーパー銭湯の範疇には納まらない……これは統合型リゾート?それでもギャンブルだけは御法度だった。

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葛町 うんとん山本屋

◎創業が古いと何が良い?

 京都のお菓子井筒八ツ橋本舗が同業者の聖護院八ツ橋総本店の元禄創業に根拠がないという訴訟は、今月22日、第一回口頭弁論が行われたそうだ。ウェブサイトを見ると双方とも最初の方に歴史の項目が置かれている。どちらも本家本元という決定打を欠く中での争いになりそうだ。静かに京の銘菓として売っていれば良いのにと思うのは筆者が京都人ではないからだろう。あそこで生きるのは大変だ。

 さて、名古屋の味噌煮込みうどんといえば山本屋さん。大手では山本屋総本家と山本屋本店がある。ウェブサイトを見ると双方とも老舗なのに歴史の項目がない。創業が古いことに価値を見出さないのか?それとも平和条約が締結されているのか?実を取る名古屋で重要なのは歴史ではなく、味と値段なのかもしれない。

 

◎葛町 山王稲荷前

 そんな火の気のないところに享保の山本屋のことをもち出すのは少し気がひけるが、見つけてしまったからご容赦願いたい。

 「不たつさか津き」という享保代に名古屋で出版された本で、西小路と富士見原の遊女の名を書き連ね、遊所をストーリー仕立てで紹介した評判記だ。この本では、まがりなりにも堀のある西小路と富士見原を両廓とみて二つ盃と見立てており、今回紹介する葛町(かつらまち)は廓外とする。

 堀もなければ木戸もないが、妓楼も芝居もあるので他の本では三遊所の一つに数えられている。場所は今の正木小学校の北端が本通りに当たる。

 右から見ていくと、鳥居に「稲荷前」とある。鳥居前の立札の前の男の台詞が分かりにくく自信がないのだが「かつはと わたぶと 両十八番じゃの」二つの演目はオハコだなと言うのか?中央の大黒頭巾の男が「一段聞いて行こ」少し聞いて行こうと。 山本屋前の女たちは「にぎやかなことじゃて」歓楽堂前の侍は「これは確かにつられもの」と言う。

 見世は右から「菜飯」つぎは田楽と思われる。当時は丸い豆腐を串に刺した。続ければ菜飯田楽…山本屋、うんとん、とくればきっと味噌味だろう、と作中には味噌煮込みうどんとして書いた。

「なごやコレクション」名古屋遊廓(市20133)より

 上が北。☆からの視点で男たちの見ている立札は山王稲荷に入って右手の「浄瑠璃」の看板なのだろう。山本屋と歓楽堂は橘町通りの東側で地図になく葛町ではない。橘町通りを南に向かい西へ曲がると葛町のメインストリートだ。ここも鉤の手になっている。道の真ん中の注意書きを読むと、「芝居へ、この空家より入る」とある。空家を北へ向かうと「宮古路豊後芝居」とある。豊後節を創始した浄瑠璃語りが名古屋に滞在していたのだった。その独特な泣くような語りが特徴。きっとマイケル・ジャクソンが入れる「アッ」という喉を詰まらせる語りだったのだろう。宗春の失脚には宮古路の影響が大きいので後にブログにも書くことになろうから、今はこのくらいにしたい。地図では宮古路豊後芝居は道に面しているのに空き家を入口としたとは、にくい演出ではないか。ディズニーランドなど現在のテーマパークのような日常から非日常への誘いの妙味を心得ている。

◎葛町 奥

 「尾陽戯場事始」の猿猴庵の絵だ。辰巳屋で客引きに止められて剽軽にしている二人は素見、ひやかしの客。宗春を真似て供の者に長い煙管を持たせた者も多かったらしい。

 この絵は、芝居のセットのように奥行きがなく奇妙だ。肝心の芝居は左上の櫓が懸っているところだが……

 同じく北が上。前掲の葛通りの突き当り近く。北に行くと西小路に繋がる。猿猴庵の絵は見世の並びから☆からと考えられる。林がある空き地で芝居も掛ったのだろう。ただし、その向こうにうだつのあるような豪壮な建物は地図には無い。

 地図の南西に「たいや」は鯛屋という妓楼で遊女濃安都によると三五という遊女が小三郎に身請けされたとある。作中ではこれを師崎の羽差に当てた。

 その三軒隣のうどん屋を宗春主従が入った見世とした。うどん屋の裏手からは闇森(くらがりのもり)八幡社の木立が見えたかもしれない。

 享保十八年霜月、飴屋町花村屋女郎の小さんと日置の畳屋の喜八の心中未遂=名古屋心中の起きた場所だ。これを名古屋滞在中の宮古路豊後が「睦月連理玉椿(むつきれんりのたまつばき)」という浄瑠璃にして名古屋、その後、江戸で大ヒットとなり豊後節は社会現象まで引き起こした。

 こんな全国的なヒットを生んだエピソードを京の菓子屋なら放ってはおかないだろう。当時、お上の手前できなかったのは解かる。今からでも遅くはない。恋愛成就のお菓子「連理玉椿」なんて名古屋銘菓があっても良いと思うのだが……。

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西小路(1)なごや新地巡り

◎六角形の錣(しころ)屋根

宗春の許可によって開発された新地は三つあった。それを順にご紹介したい。

残された絵図は少ない。以前のブログ「赤色に……」で紹介した享元絵巻にも新地が描かれている。名古屋市博物館が精彩画像で紹介している。

http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/fine_portrait/lineup/new_screen3.html

西小路は左上部。現在の松原小学校~松原公園~東輪寺の西側に当たる。

そこを拡大してみると……

 西小路芝居前の様子。赤い傘を差しかけられた女性は大夫か?檜皮ぶきに天水の載った屋根の隣に藁ぶきの粗末な屋根もある。ごちゃごちゃとして迷宮のように楽しそうだが、写実的というわけではない。町の広がりと賑わいを示すことが主眼として描かれているから致し方ないところではある。

 ほぼ同じアングルで、あまり知られていない絵が次のもの。

 漫画のような享元絵巻に比べると人が小さく書かれ建物が際立って大きく感じる。天水桶に加え「うだつ」まである立派な屋根。中央のカブトガニのような建物が西小路芝居だ。藁ぶき屋根はない。上部の書き込みを口語にする。

 西小路は今は廃れて畑となった。もっとも栄える前も畑だったのだが享保十六年の冬の頃から縄張りができた。ついに三カ所の曲輪(くるわ)が現れ、その中の西小路というのは橘町の南の東輪寺の裏通りに堀を掘って作られた場所のことだ。最初は伊勢古市の妓楼の者一人が来て家を作り始め伊勢屋某と名乗っていたところ、段々建物が立ち並んで翌年の春には一部残らず出来上がった。芝居は西小路の町並みの中程西側にあり、その外観は他と異なり屋根が六角形に造ってある。かれこれ見聞きするにつけ、懐かしいことばかり。

 出典は名古屋市史編纂資料として模写されたもの。元の「尾陽戯場(芝居)事始」は名古屋で上演された演劇を時系列で記したもので挿絵のオリジナルは尾張家家臣高力種信(猿猴庵)の筆によるという。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001793

 猿猴庵なら元絵に色がついていると思うのだが、現時点で筆者には調べ切れていない。

 

◎卍型交差点

 右手の建物が西小路芝居より手前に迫り出してきているのをお気づきだろうか?

 「なごやコレクション」に地図がある。

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00002032

 この地図の来歴は後回しにして上の絵に描かれた辺りをクローズアップしてみよう。

 星印の上空から見ると「尾陽戯場事始」の絵のアングルとなる。交差点を見ると鉤の手が組み合わさった卍型の交差となっている。どの道からも突き当りに見えて見通しが効かないが、進んでいくと正面に開け、右に開け、左に開けるわけだ。この辻だけでなく至る所が鉤の手となって「小路」の由縁となっている。名古屋城下は清州越しでできたので計画的に碁盤の目のような通りしかなかったから、迷路のような街づくりは新鮮だっただろう。

 家に居ながらこんな貴重な史料を見ることができるとは良い時代になった、とつくづく思う。

 

◎猿猴庵の想い

 地図によると絵の左右端の惣二階は「うら島屋」と「備前屋」という妓楼。芝居の右は酒屋と「なか屋」(屋号?)芝居の左は仕立て屋と煙草屋。浦島屋との間の細い路地は揚弓場に通じているのだろう。路地を伝わって「当た~り~」の声に続いて太鼓と嬌声が聞こえてきたのだろう。

 享元絵巻の藁ぶきの屋根の辺りは地図によると端女郎の小屋らしい。売春のためだけの小屋掛けを猿猴庵は意図的に備前屋の大屋根で隠し、全体として建物を立派に大きく描いているのかもしれない。

 図中の赤い印は享保二十一年四月に大火で焼失した建物を示す。賑わいは五年ともたず、また、元の畑に戻った。まさに夢の跡だ。

 猿猴庵にとっては生まれる前の出来事だが、異口同音に語られる空前絶後の遊所の姿を常々書き残したく思っていたことだろう。しかし、藩士高力種信という立場で蟄居となった宗春の時代の遊所を描くのはいかにも憚られた。そこで芝居本の挿絵として西小路芝居を描くに当たり周囲の家並を立派にしたのだろう。人もそれほど多くなく動きが少なく小さいから感情は伝わらない。だから良しとされたのだろう。

 ここで作者が問われるのは享元絵巻だ。みな楽しそうだ。石河家に伝来したという。描かせた当主は石河雅楽光当に相違ない。外には見せず、自分の若かりし日を独り懐かしんだのだろう。

 

◎「名古屋遊廓図」の来歴

 地図には明治時代に複写された旨が記されている。新しい物なのか?

 桃木書院図書館の蔵書が寄贈された神戸市に問い合わせたところ、神戸市図書館にはなかった。

 国会図書館で検索したところ、西尾市岩瀬文庫にあるものに同様の文字が入っているようだ。しかも「寛延三庚午年八月写之」と書かれているようだから、西小路の大火があった享保二十一年からわずか十四年後に地図ができていたわけだ。「遊女濃安都」はそれより早く成立し、手書きの拙い地図が入っているから不思議はない。岩瀬文庫には、別の新地「富士見原」の地図がセットであるそうだ。これはネット公開されていないから見に行くしかない。やれやれ、と春樹さんなら書くところだが、実のところ、わくわくする。

 次回は地図中の西小路芝居の枠外に書かれている部分を考察する。

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どまつりの源流(2/2)

◎盆踊りが中断

 かくして盆踊りが始まった。

「町々踊、古今稀なる賑わい、衣装は様々見事なること也」(「遊女濃安都」)

 ところが三日目の十五日の朝、江戸から訃報が届いた。宗春の五女八百姫が去る十二日に二歳で早世したのだった。因みに五月には三女の八千姫が六歳で亡くなっている。城下には触れが廻り、当面十七日までは町中踊りは停止となった。「もう一日あったのに!」衣装を新調した町人らは、不完全燃焼だったろう。単なる中断でなく突然の訃報だったから意気消沈の度合いは大きかっただろう。

だが、それに続いた御触れに彼らは歓喜することになる。七月二十四日と八月一日に盆踊りをやり直す、というのだ。七七日も経たぬ前の盆祭りの催行決定は宗春しか出せない。まさに民を慈しみ、自らは忍んだわけだ。

 「遊女濃安都」の筆はその時の賑わいを懐かしむ。

「両日、盆中の通りに町々躍り、揚挑燈、掛行燈、美を尽くし、別して本町一丁目三丁目は、両側、京都四条通り両芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に、一枚看板、役者の名を書き、懸行燈、同六丁目中程は、十二月、年中世話事の影廻し致し置き候。同広小路四ツ辻には、古今大なる燈籠、諸見物群集す。京都川原の涼みの賑わいにも増したるべきとの評判。」

 先代には盆提灯にも火を灯すな、と禁じられていたのに、広小路と本町通の交差点に「大灯籠」が登場し、本町六丁目には「アニメ動画」である走馬灯が月ごとの年中行事を映していた、というのだ。

 

◎下屋敷の面影

 高禄の武家は上屋敷、下屋敷、中には中屋敷を持つものがいた。後に記すかもしれない江戸戸山の尾張下屋敷は奇々怪々のテーマパークだった。名古屋の下屋敷も広大な回遊式庭園でその中に茶店や寺社、模擬店などがあり、なかなかの奇々怪々ぶりだったらしい。現在「御下屋敷跡」は生涯学習センター前に史跡の案内板があるだけで何の痕跡もないが、その敷地の南西端が今の名古屋園芸で、北東端は水筒先北交差点に至る。

 黒は現在の施設だ。赤い部分は寺で、今も芸術創造センターの西側一帯には多くの寺が残ている。第二次世界大戦後、小川交差点から南に真っ直ぐの広い道路を通してお墓も移転したために寺域は切り刻まれてしまったが、「法華寺町筋」の通りは今も健在だ。だが、その名は今に残っていない。あの日、あれ程賑わったというのに……。

 

◎下屋敷でオールナイトで大踊り

さらに踊りは続いた。

先代継友が経費節減のため下屋敷内の一部の御殿を棄却していたが、宗春は、おそらく尾張を相続してすぐに、新築を命じた。それがめでたく竣工し、おそらくその祝いも兼ねて子どもを含む町々の踊り連を招き入れたのだった。

「遊女濃安都」に段取りが詳しい。前日に町の代表を招いてくじ引きで番を決めたという。

「二十二日朝六ツ時より初り、順々にまかり出、これを相勤める。七十九番までこれあり候」

 二十二日に朝六時から始まって七十九番まであった。

「もっとも、町々だし作りもの、右番付を相印、暁七ツ頃までに終」

 各町の山車や作り物に番号を記したので祭当日の午前四時にやっと終わった、と追加しているところを見ると参加者が書き足したのだろう。番号を記したのはコンペだったからだ。プレゼン前の熱気が伝わってくる。

「法華寺町の寺々に二町三町づつ宿札を打、休息いたし、番選にてまかり出、そのほか、町家にても、代官町・法華寺町上屋敷方へも、縁を以って幕を打、休息所とし、不明御門より鼠壁御殿前御門前迄、茶店大分出、大賑合なり」

 法華寺町の各寺に二三町を割り振って控え所として出番に備え、町家や代官町や法華寺町の上の武家屋敷でも縁台の周りに幕を引き回して控え所とした。屋台の茶店がたくさん出て大賑わいとなった。不明(駿河)門は下屋敷南、鼠壁御殿は下屋敷内の北西あたりにあった御殿の事かと思われる。踊り手は正門から御殿の前庭へ踊り込んだのだろう。

「大人子供も帷子に金紋をき、衣裳に緋純子、島繻子、緋縮緬の類を着て踊申候」(「月堂見聞集」)

 お殿様の御屋敷を訪れるのだから下に着る帷子から金紋入りで赤い緞子、縞の繻子、赤の縮緬など高級な衣装で踊ったという。

「品々作り物、掛行燈、笛、鼓、太鼓、三味線、皆々、自分町より道行打囃子にて参り候。見物群集す」(「遊女濃安都」)

 自分の町から城下を囃しながらまさしく鳴り物入りで来たから、つられて見物も集まったわけだ。

 蓬左文庫の「夢の跡」によれば西国の森右衛門という大男の相撲取りを張りぼてで作って担いだり、将棋の駒の灯籠を頭に載せるといった趣向があったという。

 一等には金二両、すべての踊り連に褒美や尾張家重臣から料理が振る舞われた。以前と真逆の踊りの対応はがっちりと町人の心を掴んだだろう。

 明六ツから始まった祭りが終わったのは翌日の四ツ(午前十時)というから、28時間ぶっ続けのダンスコンペティションだった。

 

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どまつりの源流(1/2)

◎名古屋が踊る

今年のどまつり(にっぽんど真ん中祭り)は愛知県内23カ所で行われるそうだ。

今から287年前の名古屋で史上空前の大規模な盆踊りが行われた。「月堂見聞集」によれば名古屋城下175カ所!それに続いてのダンスコンペティションは28時間ぶっ続け……。

どまつりの歴史はまだ浅く江戸時代にルーツがあるわけではない。だが、規制から解放されて、囃子に合わせて町で踊った人々の情熱のDNAは今に続いているに違いない。

 

◎禁じられた踊り

阿波踊りを仕切っていた観光協会が赤字つづきで徳島市主導となり、今年は総踊りをやる、やらないで内輪もめとなった。踊りを観光の目玉にしようという魂胆がそもそもよろしくない。「……見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と唄っておいて大掛かりな観覧席を作って損をしてるというのは既に阿呆を通り越している。三十年前に阿波踊りのシーズンに行ったのだが踊る場所が無くてがっかりしたことを思い出した。踊りのスタイルはいろいろあろう。郡上踊りには、見るだけの阿呆はいない。誰でもいつでも同じ踊りの輪に出入りできる。しかも駐車場あたりでは街はひっそりしている。城下町の角を曲がって踊り子の姿が見えると同時に囃子が聞こえるから町々に小さなスピーカーをいくつも配しているのだろう。騒音対策として関東でイヤホンで盆踊りがあるというが、それでは体に響く音がないし、その場の一体感がないだろう。郡上方式を教えてあげたい。

鳴物に合わせて身体を躍動させる踊りは理屈ではない。踊りたいから踊るのだ。踊るなと言われると益々踊りたくなる。事実、江戸時代は踊りが制限されていた。もちろん騒音は問題ではなく治安維持、風俗紊乱を防ぐためだ。

 

◎異相なる体を禁ズ

先の継友代には踊りに対する制限が山ほどあった。享保七年の町触(まちぶれ)から禁止の細目を見ると当時の庶民の盆踊りに対する創意工夫の情熱が見える。

「装束を拵へ、裏又は家の内は躍り候儀、猶更まかりならず候。芸人を雇ひ物真似などいたし、三味線を入れ、床台を出し、提灯を灯し、其外異相なる体、致すまじく候。かつまた、作花・作物などを持ち候儀、または獅子の舞などいたし躍候儀、まかりならず候。申すに及ばず候えども、他町はもちろん、寺社あるいは諸士屋敷などへまかり越し躍り候儀、堅く仕るまじき事」

衣裳を作って家の裏や内で踊ってはならない。芸人を雇って物まねなどさせ、三味線を弾かせ縁台を出し、提灯を灯し、その他、普通でない姿をするな。花や小道具などを持って、または獅子舞をして躍るのもいけない。いうまでもないが、他の町はもちろん寺や神社、武家屋敷へ踊り込むのも絶対にしてはならない。

通りを挟んで同じ町内だったから、町内表とはその表通りのこと。町内裏とは通りに囲まれた1ブロックの真ん中、閑所(会所)と呼ばれた共有スペースで今ではタワーパーキングになっている。その表でなく裏でも踊ってはならぬという。踊りのパワーを怖れる理由は、最後に見える。町人が踊り集まることで高揚し、武家や寺社に祝儀を強要し受け入れられなければ騒動を起こすのではないかとの統治者の怖れがあったのだ。

さて、次のお殿様といったら、普段から鼈甲笠に緋のお召といった自ら異相なのだから、町人の期待が高まらないわけがない。

 

◎女と青少年を守れ

享保十六年七月八日、期待通りの触れが出た。「をとり」=踊り

「男形をとりの儀、当年は装束・衣類拵え候てをとり候とも、少しも御かまへ無しの候間、勝手次第にをとらせ申すべし、との御事に候」

 男の踊りについては、今年は衣裳を作っても全く構わない。好きなように踊らせよ、との仰せである。

男らは好き勝手にやれとの触れなのだが、実はこれには前段がある。

「盆中をとりの儀、町々女・子ども十四五才より以上の者、町中ならびにその町内表にてをとり申す儀遠慮仕るべく候、若々不埒にても出来申し候へは、その身のためにも宜しからず候間、この段町々女・子どもこれある町申し渡されるべく候、家内裏にてをとらせ申すべく候、その内十四五才よりの内の女・子どもは、只今迄の通り勝手次第に候」

 筆者はこの件を理解するのにかなり時間を要した。まずは、文字通りを現代語にしてみる。

盆踊りについて、各町の女と子ども14、15才以上の者は、町中や自分の町の表通りで踊るのは遠慮したほうがよい。若し不埒にも出て来ると身のためにならない。これについて女・子どものいる町に伝えよ。家の裏で躍らせなさい。女・子ども14、15才未満なら今までどおり勝手次第とする。

最初の「以上」は以下の間違いではないかと最初考えたが、それでは付帯の今までどおりと付帯する必要が無くなる。そこで「今までどおり」とは何なのかを探したところ、先に引用した享保七年の町触に糸口があった。

「盆中町々にて子ども躍りの儀、常々の衣類にて、町内表に限り躍り候様、年々申し付け候通り」

 規制の厳しかった頃でも子どもによる踊りは表通りで踊って良かったというのだ。可愛らしくて心を和ませたのだろう。

というわけで、付帯部分、女・子ども14、15才未満というのは男女13才以下の子ども躍りは表で踊っていいよ、と解せる。当時はペドフィリアなどという観念は無かったと思われる。

一方で踊りの遠慮を勧められた者たちも当時の恋情の在り方を考慮すると見えてきた。すなわち、「女と子ども14、15才以上の者」とは若い女と元服前の青少年のことだ。若い女の踊りが本人の意思に関わりなく扇情的であったであろうことは想像に難くない。加えて往時は男色を好む者たちにとって青少年の踊りも十分に扇情的だったのだろう。宗春本人がどうだったか定かではないが、衆道を禁止したわけではないことを付言しておく。生産性などと無粋なことを言うはずがない。恋愛も踊りもno reason。それは生が勢いよく燃えて輝く瞬間だ。

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